第2章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

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徐々に受験の気配が強くなっていく。
これからここにくる頻度も少しずつ減らしていかないのかとおもうと、るうは憂鬱になるのだった。

いつも通りシドの部屋へ向かう道すがら、るうは足元に小さな獣がうずくまっているのを見つけた。
それは赤いスカーフを巻いた黒猫で、るうに気付いても逃げずににゃあと鳴いた。

「こんにちは、おむすび」

抱き上げると大人しく目を細めている。
るうはおずおずと猫を撫でた。
そこへ、猫の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

「おむすび〜おむすび〜」

「飼い主さんが探してるのかしら」

試しに地面に降ろしてみたが、猫はどこ吹く風というようにのんびり毛繕いを始める。
そうこうしているうちに、飼い主が姿を現した。飼い主はるうとおむすびの姿を認めると、やや足を早めた。

「おやおや、可愛らしいお嬢さん。うちのおむすびさんをどうも」

お世辞だと思っても、直接そんな風に言われると面映ゆい。
出会うのが天然記念物並みに難しい、11号室の住人。確か、小説家だとか。

「あ、猫。探してたんですよね」

「ええ。最近帰ってこなかったからお腹空かせてないか心配で。でも、この様子なら安心しました」

おむすびは二人の間でころころと転がっていた。

るうは気付かれないように猫の飼い主ーー齋藤ーーの様子を伺う。
確かに性別も年齢も分からない。
真っ黒な瞳が、人間というよりは動物みたいで少し不気味だ。お姉さんというには余所余所しく、お兄さんというには近しい存在に思えた。ちょうど中間。

「お嬢さんは最近10号室へやって来た方ですね」

「る、るう、です」

るうが行儀よくお辞儀をすると、齋藤は微笑む。

「これはこれは。もうご存知でしょうが、齋藤と申します。るうさんの上の階に生息しております」

そう考えると、顔を合わせるのは初めてだが、今までも距離的には近くにいたのかもしれない。

「ちょうど良かった。たまには若い方とお話してみたかったのですよ。お急ぎでなければ、わたくしの家でお茶でも一杯いかがです?」

軽い口調の誘いに、緊張しなかったと言えば嘘だ。何を考えているか分からないし、相手が怪しすぎる。
けれど、それ以上にわくわくした。
何と言っても、相手は小説家なのだ。

「それでは、ちょっとだけ」

「わあい。お茶会お茶会♪」

齋藤はひょいっとおむすびを抱き上げると、大人げなく拍子をつけながら歩き始める。
聞いていた通り変な人だと呆れながら、るうはその後について行った。




本の塔に囲まれた椅子にやや居心地悪く座り、るうはティーカップを包むようにして持っていた。
机を挟み正面に座る齋藤は、るうと同じくらい狭い場所にいるはずなのに、慣れているからか随分と寛いで見える。
しかし、お湯を沸かしたりお茶のセットを探していたときには「ありゃ」だとか「ぎゃあ」だとかの声と一緒に、何かが派手に倒れる音が聞こえ、生活に支障が出ていることは確かだった。
10号室でたまに聞こえる騒音は、どうやら11号室の本雪崩が原因だったらしい。



紅茶を見ると、少しハルシオンの事を思い出す。
しかしそれは、老人のように紅茶にクッキーを浸して食べている齋藤の姿を見て掻き消された。

「いや〜。たまには紅茶も良いですね。貰い物のティーカップが役に立ちました」

ティーカップには桜が描かれており、よく見ると和風だ。

「ここに齋藤さんの書いた本もあるんですか?」

「あるとは思いますが、どこにあるのだか」

るうがもし自分の本を出したらとても大事にするような気がしたが、齋藤はそうではないらしい。

「あの、昔から小説家になりたかったんですか?」

「どちらかといえば、なれたからなったという感じですね」

「そう、なんですね」

何となく、小説家はみんななりたくて仕方のない人たちの、その中の一握りがなれる特別な職業だと思っていた。だから、齋藤の答えはるうには少しだけショックだった。
歌手も同じなんだろうか。

「そんな事よりるうさん、ハルシオンくんの捜索はどんな塩梅なんです?」

「え……?」

るうが顔を上げると、齋藤がおむすび染みた目を細めていた。

「あの白い子と良く一緒に探しているでしょう。あすこの大きな窓からね、イーストガーデンで何が起こっているか、けっこう見えるのですよ」

齋藤が人差し指と親指で輪っかを作り右目にかざした。
るうは背後の窓を振り向き、知らず自分たちが見られていた事を知って顔を赤らめた。
大人から見て、自分たちがやっていることはどう感じるのだろうか。

「最近、ケイトくんと王子さんがあまり一緒にいないなあとか、新しい住人さんが来たなあとか。北斗さん忙しそうだなあとか、塔子ちゃんはお変わりないなあとか」

そう、ばらばらなのだ。
自分が抱えている悩みだけではない。
るうが来た頃と比べ、イーストガーデンのみんながばらばらだった。

「正直、あまり進んでいません……」

「あら」

るうは、今自分が抱えている問題を今ここで全てぶちまけてしまいたいような気持ちになった。
齋藤は大人だから、後は何とかしてくれるだろう。
問題はるうが黙っていられる許容値を遥かに超えていた。
けれど、ハルシオン、シド、双方の事を考えると、やっぱり身動きが取れないのだ。

「齋藤さんは、大事な親友ふたりを、どちらかをとても傷付けなくちゃいけない時、どうしますか」

「しんゆう」

「でもね、片方はもうここにいないんです。いつかきっと会えるって、私は思っているけれど」

ハルシオンがあの男に殺されたなら、るうが会ったあの姿は、本来彼がなるはずで、なれなかった姿だ。
るうは、いつかその姿のハルシオンとシドを会わせたいと思った。

「うーん。きっと考えて考えて、後悔にまみれた選択をするのが人間だと思いますよ。けれど……」

齋藤は季節外れの小さなジンジャーブレッドマンをふたり、紅茶の中にぶち込んだ。

「わたくしがその親友のひとりならば、一人で悩んでないで一緒に考えたいなって思うでしょうね」

「一緒に?」

「その重たい荷物で潰れておしまいになる前に、少しで良いから分けてくださいなって。だって、後からそんなに独りで苦しんでいたなんて。聞かされる方が酷ですよ」

「……そう、ですね」

るうは膝の上でぎゅっと握った自分の両手を見た。そして心を決めると、勢いよく立ち上がる。

「わ、私、行かなきゃいけないところを思い出しました!齋藤さん、お茶とお菓子ありがとうございます!」

上着を着るのももどかしく、本の間を縫って玄関へ向かう。

「またいつでもいらしてくださいませ〜」

齋藤の声に、窓際で寝ていたおむすびもにゃあと鳴いた。
急ぐ必要はないのに、走って階段を降りる。
途中、イーストガーデンで良く見る何でも屋のイケメンとすれ違い心配されたが、挨拶だけして、3号室に急いだ。

シドに、全部話そう。
ハルシオンとどうやって出会ったのか。
ハルシオンがどんなにシドと会いたがっていたか。
そして、一緒に考えよう。
とても普通の話ではないけれど、きっとシドなら分かってくれる。

シドの部屋にたどり着き、いざノックももどかしく扉を開けようとすると、ちょうどシドも部屋を出るところだったらしく、危うくるうは扉にぶつかるところだった。

「あ、おでかけ?」

「うん。7号室、やっぱり8号室の下にあるみたい。見せてもらおうかと思って」

「そ、う……」

「るうもくる?」

首をかしげるシドに、るうは頷く。

「ええ、もちろん」

「……ん」

外はもう薄暗くなり始めていたが、シドは玄関に立てかけてある傘を取った。
予定が狂って話す機会をなくしたが、何とか今日中には言おうと、るうは思う。
これからは自分だけじゃなくて、2人、いや、3人で考えていこうと思えたのが、少し嬉しいのだった。