第2章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

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午前中から訪ねてくるような知り合いはいない。
何かの勧誘か、と寝ぼけた頭で無視を決め込むことにしたが、案外としつこいチャイムに根負けし、ケイトは立ち上がった。
ドアスコープを覗き、慌ててドアを開ける。
そこにいたのは4号室の住人、東苑寺北斗(とうおんじ ほくと)だった。

「北斗さん!なんで?」

「さあ、何ででしょうね」

普段なかなかお目に掛かれない4号室の住人が、自らやってくるとは。
犬のように無邪気に嬉しそうな顔をするケイトに、北斗はくすっと笑う。
知的でどこか気怠げなたれ目をフレームのない眼鏡に隠した彼は、今日は休日なのか、細身の黒いハイネックを着ている。

「なんだよ。汚いけど入ってよ」

「ケイトくん、朝ごはん食べました?」

「え、まだ。ってか、今起きた」

「じゃあ、待っていてあげるから準備なさい。食べに行きましょう」

「マジ?奢り?すぐ用意する」

「五分以内」

「へ?」

冷酷に宣言された言葉に文句を言おうにも、玄関の扉はもう閉まっていた。
ケイトは慌ててその辺りにあったジーンズを拾い上げる。

「ていうか、急だな、あの人も……」






「北斗さんの車、悪役が乗ってそうだよね」

「何か言ったか?」

黒のスポーツカー。マツダRX-7。
もう生産中止になっているモデルだ。
助手席で伸びをするケイトは身支度の時間がなく、いつもよりラフな格好で幼げに見えた。

「この車に女乗せてこましてんだろ。最近、4号室に女が出入りしてるってネタは掴んでるんだぜ」

にしし、と笑うケイトに、北斗は冷たい一瞥をくれた。

「言葉遣いが悪い。それからあんなに言ったのに煙草をやめてませんね。臭いで分かりますよ、ケイトくん」

首をすくめたケイトを見下げるようにして、せせら嗤うような笑みを浮かべる。

「あんまり女の子が粋がるとみっともないですよ」

その言葉に、ケイトは一瞬で殺気立った目になり北斗を睨む。

「ホントあんた意地が悪ぃな。ドSな医者って今時流行らねえぜ?」

「生憎私は勤務医ですから、人気は関係ないのです」

「患者に同情するよ」

年長者の余裕か、北斗は涼しい顔をしている。
ケイトはしばらく不機嫌そうに外を見ていたが、ぼそっと呟いた。

「そば……」

「うん?」

「そば、食べたい」

「よろしい。先日行ったところが美味しかったから、そこにしましょう」

北斗はそう言って、アクセルを踏んだ。
顔に似合わず、いや、見た目通りのスピード狂である。






「中途半端な時間になりそうですが、まあ良しとしましょう」

いかにもな古民家風の建物の前には、開店前にも関わらず人が並んでいた。
二人もその列に加わり、店の開店を待つ。

「ていうか、何事?たまの休みに近所のガキ遊んでやろうって柄じゃねえだろ、あんた」

「当然話したいこともありますが、まあ、これでも一応あなたのお母様から死なないように面倒を見るよう言われている身の上ですからね」

「いつの話だよ、それ。俺、もう二十歳越えてんだけど」

「定職にもつかず毎日遊び歩いて。大体、痩せすぎ。ちゃんと食べてます?肉にした方が良かったんじゃない?充分頼りないですよ」

「はいはい、説教はいいよ。あと、体型についてはあんたに言われたくねぇな」

「私は食べても太らないんです」

「うーわー。世の中の女どもに聞かせてやりたいねー」

実際、北斗と卓を共にした者は驚く。
細身の身体で通常の成人男性の2倍はぺろりと平らげる健啖家だ。
軽口を叩き合いながら、ケイトは北斗の横顔を盗み見た。
北斗が首を傾けると、顎まである真っ直ぐな髪がさらりと流れる。

「そうそう。さっきケイトくんが言ってた、私の家に出入りしてる……」

「ん。あ、店開いた。中で話そうぜ、北斗さん」

この時ケイトが北斗の言葉を遮ったため、重要な情報を聞き逃すことになる。





「7号室と8号室?」

「そう。今日あたりから越してくるって言うじゃないですか」

北斗は耳に髪を掛けて、蕎麦をすごい勢いで平らげながら、それでいて優雅に話す。

「ああ、雪(すすぐ)と……間宮さん?だっけ」

雪、というのは数年前に名前隠しのゲームで鍵を手に入れた一人だが、もう一人はケイトの叔父が個人的に渡した相手らしく、直接の面識はない。
8号室の方は、ちょうど夕方から部屋の鍵を渡す約束があるのだ。

「その二人とも私の知り合いなので、一応ケイトくんにはご迷惑をおかけすると思いましてね」

北斗の、こういった律儀さがケイトは割と好きだった。

「そうなんだ。そんなん、別に気にすることないのに」

「いやあ、まあ一人は大人ですからそうでもないけど、雪成は難儀な子でね」

雪成とは、雪の本名である。

「北斗さんと雪の関係って何?」

「叔父と、甥」

ケイトは箸を止めた。

「え、じゃあもしかして冬海静花が……」

「私の姉ですね」

「〜〜〜〜!!」

ケイトは無言で足で地面を蹴る。
冬海静花は割と有名な女優である。
色っぽさを売りにしており、悪女や不倫をする妻の役などをよくやる。
無論一部にしか知られていないが、雪はその私生児だ。

「知らなかった。北斗さんのことは何でも知ってると思ってたのに……」

「どうしてそう思ったんだ?」

「でも、似てる。確かにエロい顔が」

「おい。」

「で、雪は何でそんな心配なわけ?」

ケイトには、あまり雪が印象に残っていない。
綺麗な顔立ちはしていたが、大人しく内向的で、いつも目立たない場所にいた気がする。

「うーん。繊細っていうか、エキセントリックっていうか」

「ああ、オトシゴロってやつ?」

「うーん……」

「まあそんな心配すんなよ。俺や瞑夜だって、思春期はそれなりだったぜ。ガキは勝手に育つって」

「そう、だといいけど」

思案顔の北斗は、また蕎麦のお代わりを頼んだ。

「もう一人は?」

「ああ……」

心なしか、北斗は疲れた顔をする。

「北斗さん?」

「……幼馴染です」








「ほ〜くとちゃ〜ん」

あ〜そび〜ましょ〜、と間が抜けた声で呼びかけながら、その女はチャイムを連打した。

「もぉ〜。居留守は駄目だぞ?」

ぷくっと膨れる彼女は、手入れの行き届いた茶髪を巻いて、ボディラインの出る花柄のワンピースに、薄い色のジーンズ地のジャケットを着ている。なかなかの美人で、何より巨乳だ。
傍らには簡素なキャリーバッグが置かれていた。
彼女はすでに2分間はチャイムを押し続けている。けっこう非常識だ。
そんな中、彼女が向かっているのとは反対側の部屋の扉が開いた。

「……あの、」

振り向けば、真っ白な少年が扉の陰から覗き見ている。
言わずもがな、シドである。

「隣の人……さっき、出かけてた……とおも…」

いかに防音仕様といえど、扉付近で寝ていたシドには彼女の声は丸聞こえだったようだ。
ワンピースの女はそんなシドを見て黙って立ったままだったので、シドも何となく仕方なしに立ち尽くした。
すると、女は唐突に予備動作なしでシドの目の前へやって来て、こう叫んだ。

「萌えーー!!!」

シドの肩がびくっと揺れる。

「少年!名前なんていうの?何歳?彼女いるの?それとも彼氏?彼氏がいるのね?どういう系?オラオラ?優等生?無骨な感じ?ってか受け?まさかその顔で攻め?いい!いいわよ!歳上と歳下どっちが好きなの?え?同い年でもいいのよ。何だっていい。何だってお姉さんいけるわ。ごはん何杯でもいけるわ!!」

シドは今まで遭ったことがないが、痴漢とはこういうものなのかもしれない、と思った。
言っている事の半分も分からなかったが、どうやら辱めを受けているらしい事は理解する。(かといって、抵抗もしなかったし、特に何も感じなかった)
しかし、

「何してるんですか?」

不意に少し棘のある声が掛かり、女のマシンガントークは止む。

「あ……るう……」

階段を上ってきたるうは、女を非難するように睨む。
シドが絡まれていると思ったらしい。(そしてそれは間違っていない)
しかしワンピースの女はそれに怯むどころか、ふわっと微笑む、なんて可愛いものじゃなく、満面の笑みを浮かべた。
さすがに毬也も引きつった表情になる。

「かんわい〜い!なあに、君たち、カップルなの?こんなお可愛らしいカップルならNLでも私いけるわあ!つり目の女の子とたれ目の男の子……めっちゃバランス良すぎて2次元かと思った。すげえ萌える。でも、君たちのGLとBLも私は涙が出るくらいよ・み・た・い……!!」

るうは矛先が自分に向かった事により、さっと顔を青くした。
さっさとシドの部屋に引っ込みたかったが、シドの前には女がいるし、シドは何やら呆然とした顔をしている。
そんな二人をニコニコ見ていた女だったが、

「でもそっか、北斗ちゃんいないんだね。かわりに一二三ちゃんのとこ行こうかな」

さっきまでのテンションが嘘みたいな、普通の綺麗なお姉さんに戻って言う。

「あ、そだそだ。君たちにもご挨拶しとかなきゃだね。私、間宮塔子。今日からエクリチュール館の8号室に越してきました」

ジャケットのポケットから名刺入れを取り出し、二人に1枚ずつ名刺を渡した。
ポップなデザインに、猫耳少年のイラストが載っている。

「まんがか……」

シドの呟きに、塔子はにっこり笑った。
黙っていれば、都会の服屋で店員でもやっていそうな見た目である。

「えっちなホモ漫画描くのが職業なんだ。ふたりとも、締め切り前はよろしくね」

漫画家という生き物を初めて見た二人は、その衝撃的な出会いによって、漫画家に対する印象が少なからず歪められてしまったのだった。