act.18
「これ、これが、翼だっていうんですか?」
瞑夜の声は半ば悲鳴だった。
でも答えはもう出ているのだ。
その箱は、尋常じゃなくにおった。
「うそだ……」
愉快そうに見下ろしていた男は、座り込んでしまった瞑夜の為に、軍手をはめた手でアイスボックスを開いた。
途端、激しい臭気と虫が広がる。
瞑夜は思わず顔を背け、口を覆った。
「ちゃんと見てあげてよ、お兄ちゃん」
恐々、と視線を向けた瞑夜は、それを見た途端、その場でえづいた。
「嘘だ……あの子が……嘘だ……」
ケイトは二人に近付き、アイスボックスの中を覗き込んでみた。
胃液がこみ上げるのを必死に押し戻した。
それはもう、人間でなかった。
歪んだ欲望の器となる人形だった。
左右の瞳はアンバランスに開かれ、眼窩の中身はよく見れば偽物だ。
口は笑みの形に引き裂かれ、端を縫合されている。赤黒い舌は飛び出し、大きなガラス玉のような物を咥えている。唇は飴を塗ったようにぬめっていた。
身体は上半身しかない。
肋骨から下は引きちぎられており、白い肌は所々傷を隠すように直接ガーゼをとめられている。空洞になった首からあばらまで、女児が好むようなイミテーションの宝石のおもちゃが詰まっていた。
何か違和感があると思えば、肌には白い塗料が塗られているらしく、防腐処理の追いつかない皮膚が、一部の皮膚を溶けているように見えていた。身体の底には赤黒いゼリーのようなものが溜まっている。それが酷く臭った。
腕は一度切られ、関節を縫いぐるみのように継ぎなおしてある。指が祈りの形に結ばれ、身体の至る場所にピアッシングがなされていた。
そこまで身体を壊されて、なお顔の柔らかい繊細さや肩の骨格、指の形にハルシオンの面影が残っているのがグロテスクさを加速させていた。
「きれいだろ。大好きな子だから、一番頑張ったんだよ」
ケイトには、あまりに暴力的な光景が過ぎてもはや現実感がなかった。
瞑夜は壊れた操り人形のようにくったりとしながらも、箱を自分の方へ引き寄せている。男は笑っていた。
「そう言えば翼くんね、誰にも助けは求めなかったんだ」
ぴくっと瞑夜の肩が動く。
男は、上着のポケットから写真を数枚出して瞑夜の前に置いた。
「最初は髪を少し切るところから始めて、髪が終わったら爪、耳、歯、指って、少しずつ解体していく。ほとんどの子はここで泣いちゃうけど、まだ諦めないんだよ。」
そこには少しずつ、身体のパーツを喪ってゆく瞑夜の弟が写っていた。
ポラロイドカメラで撮影された、拘束されたハルシオンがこちらを睨んでいる。片目になっても、両手が不自然に短くなっても、それは変わらない。
「……」
「指の段階で大抵の子の魂は一度死ぬ。翼くんはね、足首を切られた時、しばらく泣いていた」
真っ赤なタイルの上で、膝を抱くようにしてうずくまる少年は、もう毛髪も、耳も、両腕も残っていない。
「……やめてくれ……」
「大切だったんだろうね。だから僕言ったんだ。もう二度と走れないねって。自転車にも乗れないねって。それでも翼くんは諦めなかったから、僕はうれしかった。生きて戻らないと、友達がずっと自分を待ってるからってさ」
瞑夜が真っ白な面を上げた。
そこからは完全に表情がごっそりと抜け落ちていた。
「それで僕、彼を見ていたんだ。本当に彼がずっと翼くんを待ってるか。翼くんと一緒に、朝貴くんを見ていたんだよ」
瞑夜はぶるぶると震えた。
「からだ……ここにない、残りの身体は……?」
「ああ、食べたよ」
「た……?」
男は妊婦のように自身の腹をさすった。
瞑夜は訳がわからないというように首をかしげる。
「食べた。翼くんの目の前で。大事な脚、ぜんぶ食べちゃった」
瞑夜は再び嘔吐した。
男は慈しむように箱の中のハルシオンの髪に触れる。
「ひとでなし……」
「酷い事を言うな。僕はただ、この子に恋をしただけなのに」
ケイトには男の言葉がまるで理解できなかった。ハルシオンに触れている男の手をどけたいと思った。
「うつくしいものと、一緒になりたいんだ。僕は醜いなり損ないだから、どうしても綺麗な物に憧れちゃう。魂に触れたり、肌に触れている時だけが、僕は自分を忘れる事ができるんだ」
「……」
「僕が普通のひとであれば。考えた事もあるよ。だとしても、絶望的だ。こんな小さな子」
「それは……」
「理由にならない。そう言いたいんでしょ。君は、きっと僕の気持ちを理解できる。キミとボクはよく似ているね」
「……似て、いる?」
「キミがボクを知っていたように、ボクもキミの事知っていたよ」
男は写真を拾い上げると、ポケットにしまう。
「優しくて綺麗で優等生な翼くんのお兄ちゃん。片や僕は気味の悪い木偶の坊だ。でも君、そっくり。僕とそっくりだ。綺麗なのは皮一枚だけで、中は真っ黒。欠陥人間なんだよ。可哀想にね」
ケイトは耳を疑った。
この男と、瞑夜のどこが似ているのだ。
「翼くんは皆から愛されていたけれど、君はそうじゃない。孤独だ。同じ家に生まれて、幸せに育ったはずなのに、君はいつも生きる事に後ろめたい」
「おいお前、何言ってんだよ……」
思わず口にしていたが、ケイトの言葉が男に届くはずはなかった。
「きっとこれからずっと、誰も愛する事なく、誰からも愛されず、人間の営みから外れて孤独に死ぬ。まるで僕とそっくりだよ。ひとでなし。僕は愛を手に入れた。でも君は、一生そのままだ」
それは呪いだった。
全部の言葉を否定してやりたかった。瞑夜の耳を塞いで、男から隠してやりたかった。
この時、自分は何をしていたのだろう。
こんなに友達が傷ついているのに、どこにいたのだろう。
「あ、そうだ。これも返さないとね」
男は足元にあった見覚えのあるランドセルを瞑夜の前に置いた。
それから口から何かを吐き出すと、それを無抵抗な瞑夜の手に何とか握らせて、「またね。残りもいつか返すよ」と笑って去っていく。
男の姿が見えなくなってから瞑夜が手を広げて見ると、そこに乗っていたのは、小さな子供の歯だった。