act.11
「お兄ちゃん。今日は何時に来てくれる?」
白いネグリジェにカーディガンを羽織った母親は、真っ白でまるで幽霊みたいだ。
あの日から、母親は好きだった家事をしなくなった。ただ、最後に弟がいなくなったイーストガーデンには毎日赴いて、店を開くでもなく帰ってくるのを待っていた。
「六時には店に行くよ」
「……そう。遅くならないでね」
門を出るときに振り返ると、玄関の横に放置されている弟のロードレーサーが錆び付いて、草が巻きついていた。
いつの間にか食前のお祈りも、日曜日の礼拝もしていない。
父親は表面的には冷静に見えたが、毎晩のように祖母に電話をしているようだった。
皆の日常が少しずつ丁寧でなくなってゆく。
学校に行くと、休み時間には必ずケイトが話しかけてきた。
ケイトは幼馴染で、弟が産まれた時も一緒にいたのを覚えている。ケイトと弟が過ごした時間も長い。
それでも明るく全然関係ない話を振ってくれるのが、有り難くって、得難くって、でも一緒にいると疲れた。ケイトといるとイーストガーデンを思い出す。
そんなある日父親が言う。
「瞑夜くん。君はイギリスに戻りなさい。元々日本は君に合わなかった」
それはずっと瞑夜が思っていた事で、でも口にした事はなかった。瞑夜はこの国が嫌いだった。
聞けば母親も店を閉めるようで、父親の言葉からは弟の事を一度リセットしようという意図を感じた。
「瞑夜くん。君は優しい子です。君はいつでもダディの誇りですよ」
「君たち、じゃ、なくて……、」
その言葉に、父親は何も言わなかった。
瞑夜は涙を流さなかった。
流す心も、資格も持っていなかった。
「小さい頃、虐められていたんだ」
たくさんのパステルカラーの小瓶を突きながら、瞑夜は言う。
雪の化粧道具は祖母の裁縫セットくらいの量がある。三段の箱に、何に使うのか判断のつかない可愛らしいボトルやチューブが宝物のように大切に仕舞われていた。
雪の足の指が徐々に水色に塗られていくのを見て、昔弟がプラモデルに色を塗っていたのを思い出す。
二人は瞑夜の部屋で、カーテンを引いたまま怠惰な時間を過ごしていた。
気が向いたら菓子を食い、気が向いたらうたた寝する。床には可愛らしい放送の菓子が散らばり、部屋は雪の香水の匂いが混ざって甘ったるい香りがしていた。
「瞑夜が?どうして?」
「ハーフだったからかな。『外人』って言われて、意味が分からなくて父親に聞いて、悲しい顔をさせてしまった」
「ハーフって人気者になりそうなのに」
「なるよ。ある程度大きくなるとね」
瞑夜は特に感慨もなくそう言う。
小学校高学年頃から、手のひらを返したように周りの態度が変わった。
まるで、瞑夜と一緒にいれば何かを得られるかのように、人が寄ってきた。男も、女も。
「でも、弟は虐められなかったから、それが理由ではないのかも」
「悲しかった?」
「……その時は何か思ったんだろうけど、今は別に」
ただ、あまり他人を信じられなくなった。
瞑夜は雪を見る。
化粧や女装を除いても、そうとう可愛らしい顔をしている。
この子は自分の何が目当てなのだろうと考えた。
連れて歩きたいだけなんだろうか。
都合の良い話し相手が欲しいだけなんだろうか。
「瞑夜、目の下クマができてるよ。寝てないの?」
雪が自分の目の下を指差しながら言う。
瞑夜は顔をそらし、持っていたマニキュアのボトルを戻した。
「最近、嫌な夢ばかり見るからあまり寝る気にならなくて」
「すすぐ、いっつも眠たいからすすぐの眠たさを分けてあげられたらいいのにねー」
「はは……」
相変わらず雪の話はトンチンカンで、人のテリトリーにずかずかと入り込んで来て、さも当然という顔をしている。
たまに、否。しょっちゅう気分が乗らずに冷たくあしらっているが、その時は悲しそうな顔をするものの、次会った時にはいつも通りに戻っている。
独り言を呟く時に添え置く首ふり人形には最適で、いつかすごく傷付けたり嫌われたりしても構わない都合の良い存在だった。
「ケイトにも言ったことない事言ってるなあ」
「ケイトぉ〜?」
雪がぷくっと頬を膨らます。
「瞑夜、ケイトとなかよしだねっ」
「…………嫉妬してるの?」
「してないもんっ。あ、ケイトといえば!」
横にくくった髪をぶんぶん振っていた雪は、唐突に気付いたような顔をする。
「明日、ケイトに7号室開けてもらうんだ」
「明日?……じゃあ今までは?」
「普通の鍵がつけられるまで、勝手に入ってた」
「…………」
「だってケイトったら教えてあげるまで7号室の場所までしらなかったんだよ。清掃とか準備とかがあって、雪が入るのこんなに遅れちゃったんだ」
確かに、これで全ての部屋の場所がケイトの管理下に置かれたはずである。
そもそもの管理者であるケイトの叔父は、本当にどこへ行ってしまったのだろうか。
たまに手紙が届いたりすることから、生きてはいるようだが。
「じゃあ明日からは、」
「すすぐは北斗さんの所からお引っ越し」
あまり姿を見ないとはいい、あの口うるさそうな保護者から雪が遠ざかるのは瞑夜にとって都合がよかった。
「じゃあ、これからはもっと沢山会えるんだね」
「そうだね!」
瞑夜が笑って見せると、雪も無邪気に笑う。
今も7号室の鍵は雪の首にぶら下がっている。
求めるものが手に入るのも目前と思えた。