act.14
「瞑夜、瞑夜」
一瞬の微睡みに夢を見て、けれどすぐに起きてまた泥のような意識でゆっくりと動く。
夢はみんな悪夢だったが、起きてすぐは現実と夢の区別がつかない。今も名前を呼ばれたのが本物か幻聴か決めかね、ゆっくりと振り向いた先に雪がいたので現実だと分かる。
「雪……」
「部屋の鍵、あいてたよ」
座ったまま寝ていたので身体が痛い。
雪は紙鞄からパンの袋を取り出して瞑夜に差し出した。
「ごはん買ってきた」
「食欲、ないんだ」
「弱ってる」
「おかげさまで……」
弱ってる瞑夜も好き、と笑って、雪は袋から菓子パンを取り出して食べ始めた。
どうせ自分の食べたいパンばかりを買ってきたのだろう。
瞑夜は手を伸ばし、雪の持っているチョコレートマフィンを少し千切って持っていった。
「なんだか、やっぱり男だとは思えないな」
小動物のようにパンを頬張る雪を見ていて、思っていた事がそのまま口に出ていたらしい。
雪はパンを齧るのを止め、少し俯いた。
「男だとか女だとか、そんなに大事かな。すすぐはすすぐなのに」
「でも君、本当の名前は雪成って言うんでしょ」
「うん。でも、すすぐって名前も本物だよ」
理解するのを諦めたような瞑夜の顔を見て、雪は尚続けた。
「お母さんに貰った名前は本当で大事だけど、『雪』って名前も同じくらい……ううん、それよりずっとわたしには大切なんだもん。だって、これは瞑夜がつけてくれた名前だから」
「僕が?」
思いがけない言葉にまともに雪を見ると、彼は小さく頷いた。
「やっぱり忘れちゃってたね」
雪は寂しそうに言って、窓際に行く。
そこからは、イーストガーデン7号室へと続く、昨日雪がケイトと歩いた道の一部が見えるはずだ。
「……名前隠しのゲーム。瞑夜は気乗りしてなかったね。成り行きでやる事になっちゃったから仕方なく参加して、でも途中で自分から負けちゃう気でいた」
『いや、マジ叔父さん頭おかしい。賞品アパートの部屋にするつもりらしい!親御さんから苦情くるって』
『まあ、ケイトの叔父さんが変わってるのは今に始まった事じゃないというか……』
『だからさあ、少しでも問題の母数を減らす為に王子も参加して1部屋取ってほしいんだ。王子のお父さんなら話通せるし。翼にも賞品豪華だからって発破かけといて』
『だからって子供達のゲームに僕らが参加するの?』
『お願いお願い!このとーり!』
『……もう』
「でも、ケイトが頼んだからちゃんとやる事にしたんだよね。それで、後日肝心の名前はどうしようって話になって……」
『俺はケイトでいいや。昔っからそう呼ばれてたし』
『本名知ってる人のが少ないんじゃない』
『王子たちはどうすんの。君らの名前は割と有名だけど』
『最近来た子はあまり知らないでしょうね。翼はともかく』
『僕はまあ、ともだちには黙っててもらうようオネガイするからさ。ね、雪成』
「待って。あの時君はいたのか?」
「いたよ。あの時、わたしはハルシオンの『ともだち』だったから」
不思議はない。
雪は瞑夜よりもハルシオンの方がずっと歳が近いのだ。
「ハルシオンの『ともだち』は、ハルシオンに絶対服従だもん」
雪の甘い声に、瞑夜はあの頃に戻ったように思う。身体中の毛が逆立つようだ。
「でも瞑夜は、普通に弟の遊び友達だと思ってわたしに接してくれた」
『適当に、本の中にある言葉であだ名を作るとかどうでしょう』
『本?』
『こうやって目を閉じて本のページを開いてみるんです。その中の印象的な言葉をあだ名にするの』
『へえ、なんか面白そうじゃん』
『そこの子もまだ決まってないならどうですか?』
『……え、ぼく?』
「そう、それがわたし」
正直なところ、その頃の雪は瞑夜にとって沢山いる弟の友達の一人であり、その出会いは印象的ではなかった。
女優の私生児と噂されてはいたが、それでもどの子か判別するほどの関心はなく、教えられれば「そうなんだ」と思う程度だった。
「その本は童話や伝記をまとめた児童書で、ハルシオンはギリシャ神話、イバラはいばら姫、雪は白雪姫から選ばれた言葉だったよね」
「そういえば……」
朧げながら当時の記憶が蘇ってくるようだった。大して気にもかけていなかった、あの時の内気な少年。
「瞑夜言ったよね『雪って字には、罪や穢れをすすぐって意味があるんだ。だから、すすぐって読む事もあるんだよ』って」
「そんな事、言ったかな」
言ったかもしれない。
その清廉なイメージもあり、瞑夜は雪という漢字が好きだった。
初めて雪に「汚名を濯ぐ」という意味がある事を知ったのは、小学生の頃だ。
市の図書館の片隅にあった、正方形の絵本のような変わった本。
それは書道家の本で、小学校低学年で習うはずの雪という字は、あたかも絵、可愛らしい見たこともない形にメタモルフォーゼしていた。
その隣のページに、この字の意味が書いてあったのだ。
「すすぐ、すすぐ」
幼少を英国で過ごした瞑夜には特に読みにくい響きで、しかしそれが魅力的な引っかかりになり、飴玉を転がすようにして何度も幼い舌で唱えた。
今の今まで忘れていた。
あの字も、あの少年も。
「すすぐ……」
窓の外を見ていた雪が、こちらを振り返る。
二つにくくった長い髪が流れる。
不意に、この子がとても大切な子なのではないかという気持ちになってきた。
俄かに世界が輝き始める。
それは不眠症が起こす錯覚かもしれない。
ましてや相手は弟と同じほど歳の離れた少年だ。
「瞑夜に罪があるのなら、それはわたしが雪ぐの」
そう笑った雪を、瞑夜は抱きしめていた。