act.15
次の日起きると、隣で雪が健やかな寝息を立てていた。
瞑夜自身も久しぶりに一つも夢を見ないくらいぐっすりと眠り、身体が心地よく温かい。
雪を起こさないようにベッドから抜け出し、お湯を沸かす。
「見ててね」
昨晩、雪はそう言ってブラウスの胸元にあったリボンを解いた。
次にコルセット型のベルト。ストッキング。ハイウエストのスカート、パニエ。ガーターベルト。
ブラウスの裾から雪のまっすぐな脚が見えた。下着は男物で、脚の形も女子のように柔らかな曲線を持たない。
雪は続けてブラウスのボタンを上から外してゆく。その指は震えており、全てのボタンが外されるのには時間がかかった。
呼吸の音が聞こえると下心があるみたいに思われそうで、つい意識してしまう。
ブラウスの下には意外にも何も着ていなかった。雪はブラウスを足元に落とし、最後に髪に手を掛け、ウィッグを外した。
「これが、わたし」
小刻みに身体が震えている。
無理もない。身につけている物は下着と、ペンダントになっている7号室の鍵だけなのだ。
こうしてみれば、少し華奢な男の子に見えるのかもしれなかった。
「裸でいてもわたし。でも、女の子の格好していてもわたし。どちらもちゃんと、わたし自身だよ」
暗い室内で、雪の仄白い身体が浮き上がって見えた。
窓明りで見えるあばらの繊細さや薄い腹は今まで見てきた女性の身体とは違ったが、素直に美しいと瞑夜は思った。
「名前、もらって嬉しかったから……」
雪が下を向くと、月の光で長い睫毛が影を落とす。
「わたし、あの時からちゃんとこの名前と、瞑夜に相応しい人になろうと思って頑張った。仮装パーティみたいな格好だとか馬鹿にされたし、町でいっぱい見られるのも最初は辛かった。でも、わたしは自分の心に嘘ついてない。大好きなお洋服を着て、それに似合うお化粧や仕草も勉強して、わたし誰より可愛くなったでしょ。あなたの事思う気持ちも、自分を大事にする気持ちも、わたし誰にも負けてないよ」
でも、と小さい声で続く。
「わたし男だから。女の子にはどうしてもなれない。……たとえ瞑夜の為でも、自分に嘘はつけないよ」
瞑夜は驚いた。
正直、雪がこんなに何かを考えていると思っていなかったのだ。
ただ悩みもなく育ち、何も考えず奇抜な格好をして、人に守られ、面白おかしく生きているのだと思っていた。
「君は、女の子になりたいの?」
雪はふるふると首を振る。
「すすぐは、ちゃんとすすぐでいたいの」
涙を湛えた大きな瞳が、とても強かった。
雪は自分に相応しい人間になりたいと言ったが、瞑夜は自分にそこまでの価値があるように思えなかった。
瞑夜が椅子から立ち上がると、雪はびくっと身体を大きく震わせた。近付くと不安そうに見ていたが、逃げはしなかった。
何か言おうとして、何も口をついてはこなかった。今まで散々好き勝手言えたのは相手にどう思われても良かったからだ。
代わりに、頬を撫でてみる。すると、睫毛に留まっていた涙がこぼれ落ちた。
「君は、ちゃんと君ですよ」
「うん」
「今までちゃんと見ていなくてごめん」
「うん」
「どうやらごっこ遊びのつもりが、いつの間にか本気になっちゃったみたい」
「……う?」
瞑夜が少し照れながら言うと、雪はびっくりした顔で固まった。
「君が好きです。……どうかこれからもそばにいる事を、許してくださいますか?」
びっくり顔の雪は、この暗さでも分かるくらい徐々に真っ赤に染まっていき、言葉を完全に理解すると頭が取れるんじゃないかというくらいの勢いで頷いた。
その後、ほっとしたのか声をあげて子供のように泣き出したので、それをあやしていたらそのまま二人で寝てしまった。
抱きしめてみたその身体は人形でも、言葉の通じない宇宙人でもない。生身のちゃんとした人間だった。
「しかし、まさか、ウィッグだったとは……」
ぼんやりと回想に浸っていた瞑夜は、気が付けば沸騰していたケトルの火を慌てて消した。
その音で目を覚ましたのか、ベッドで布団が大きく動いている。
「あ、雪。起きまし……」
「めいやあ!」
「えっ」
裸に下着とブラウスをひっかけただけの雪が、一足飛びに勢いよく瞑夜に抱きついた。
「ちょっちょっ薬缶が!危ない!」
「えへへ。昨日のこと、すすぐの夢かと思って怖くなっちゃったよ〜」
「雪……」
「あっ!目が腫れてるから顔見ないで」
「あ、すみません」
瞑夜はしばらく自分の胸に顔を埋めている雪の頭をぽんぽんと撫でていたが、ふと自分たちの姿が姿見に映っているのに気が付いた。
これって、他人が見たら随分やばい状況なのではないか……。
自分と雪の年齢差を数え始める。
昨日から自分たちはお付き合いを始めた(多分)。しかし、この場合は彼がせめて18歳になるまではそういう事はしない方が良いのだろうか……。いや待て、もう一泊してるけどそれは?というか男の子と付き合った経験など一度もないが自分!?
「瞑夜?」
無言の瞑夜を不思議に思ったのか、顔を上げた雪と目が合う。
確かに目が少し腫れていて、それが可愛かったので瞑夜はちょっと笑った。
「何でもないよ。朝ごはん作りましょう」
身体を少し持ち上げてぐるっと回ると、雪がはしゃいだ声を上げた。
「瞑夜は、破壊的にごはんが下手だね」
焦げた卵焼きを食べながら、雪が言う。
「食べられればいいのです」
「砂糖のいれすぎなんだ。今度すすぐが作る……」
「雪、料理できるんですか……?」
随分疑い深い声が出てしまい、雪がぷうぷうと不満に頬を膨らませた。
「すすぐ、北斗さんにお弁当作ったりするよ!」
「何だか火を扱わせるのが不安な気がします」
「縫合も料理も人よりじょうずだもん!」
「縫合って……」
ムキになって言い返す雪の口にパン屑が付いていたので取ってやる。
すると雪の顔がぼぼっと赤くなったので、つられて瞑夜の耳まで赤く染まった。
なんだかこんな気持ちは久しぶりで、落ち着かない。
言葉を探して焦げたベーコンを咀嚼していると、雪が先に口を開いた。
「あのね」
「ん?」
「約束だから」
雪は自分の首に下げていた鍵付きのペンダントを瞑夜に差し出した。
あんなに欲しかった鍵を手中に収めて、けれども取り立てて感慨がない。
「すすぐね、瞑夜のうた、すきよ」
「うん……」
「でも、瞑夜が苦しいより、二度と聴けないほうがまし」
「……」
雪は暗に逃げても良いと言っているのだろう。
お前の歌しかいらないと言ったケイトの言葉と、雪の今の言葉は、なんだか対照的な色を持っていた。
「雪。やっぱり僕はもう一度歌ってみたいよ。そのために、試せる事は全部試したい」
瞑夜は強く鍵を握りしめて言った。
不安そうな雪の瞳が揺れている。
そしてそれは、その瞳に映る自分も同じだった。