エピローグ
目を覚まして最初に目に入ったのが知らない男の顔だったので、シドはびくっと身体を揺らした。
「あ、おはよう朝貴くん。お客さんが面会したいって来てましたよ」
「あ……ども……」
熊のように大きな看護師だ。
彼は優しそうに笑って、シドの包帯を替えた。
「首の傷はまだいたむ?」
「ずいぶん平気……」
「頸動脈は意外と奥にあるから確実に死にたい場合にはおすすめできないよ」
その看護師らしくない言動に、普通の者なら疑問を持つのだろうが、シドはきょとんとしていた。
「そうなんだ、覚えとく……」
「早く良くなるといいね」
看護師が笑ったので、シドも頑張って笑顔をつくる。しかし、それは他人からは目を細めているようにしか見えなかった。
看護師が出て行くと、しばらくして扉がノックされた。
シドが応えると、るうが小さな白い花束を持って入ってくる。
「久しぶり」
「うん」
るうはしばらく親に外出を禁止されていたので、二人が会うのはハルシオンを掘り起こしたあの日からおよそ1ヶ月ぶりだった。
「思ったより元気そうで、良かった」
るうは棚から花瓶を取り出しながらそう言った。
「傷は浅かったみたい。俺力ないから」
「うん」
医者いわく、むしろ破傷風が心配だったそうだ。
結局あの騒ぎで、ハルシオンの事件は明るみになってしまった。
しかしほとんどケイトが泥を被る形で庇ってくれたので、警察での聴取も、怪我人のシドや未成年のるうは意外とあっさりと終わった。
ハルシオンがあそこに埋まっていたのも偶然見つけたという話になっているが、イーストガーデンの所有者、ケイトの叔父がいないので、ケイトは中々解放されない。
瞑夜も被害者の兄という事もありしばらく忙しそうだったが、先日イギリスに帰国すると決まったらしい。
「ねえシド。あの時、どうして自殺したの」
るうが振り向くと、パソコンの電源を入れていたシドが、なんて事ないという調子で答える。
「そしたらハルシオンに会えるかもしれないなって思ったから。死後の世界があるかは知らないけどね」
「……その時に、私と会えなくなっちゃかもとか、少しは考えてくれなかった?」
「え?」
シドがるうの言葉に首をかしげる。
それが答えだった。
るうは、気付かれないようにため息をついた。
「私ね、ハルシオンからシドの友達になってほしいって言われたの。だからシドに会いに来たんだよ」
「ハルシオンから……」
「うん。私にとって、シドもハルシオンも、どちらも特別なともだちだった。学校でできる、言葉だけのともだちじゃなくて、本当のともだちだよ。そう思ってたの」
「…………」
「でも、あなたもハルシオンも、あっさり私を諦める。私は結局、最初からあなたたちに関われてはいなかった」
るうは首に下げていた10号室の鍵をベッドサイドの机に置いた。
「シドが死のうとして、色んなことを思ったけど、一番はたぶんとてもがっかりしたんだと思う。この鍵も、私の代わりにあなたからハルシオンに返して」
シドは困惑した様子で、何も言えずにいるようだ。
その間にるうは花瓶に水をいれる。
シドの家が金持ちだからか、個室にはちょっとした水道が備え付けられている。
「私ね、ここから引っ越すことになったんだ。高校もそっちで通うつもり」
「えっ?……え?」
「だから会えるのもこれで最後かもしれないわね」
受験の大切な時期だったが、両親が心配して引っ越そうと言ってくれた。
悩んだが、るうはそれに甘える事にした。
「じゃあね、シド。ばいばい」
一方的なお別れはお互い様だ。
まるで当て付けみたいだが、この出来事はるうには大きすぎた。
病室を出ると、慌てたシドがベッドから落ちる音がしたが、彼女は振り向かなかった。
全てを振り切るように早足でその場を後にした。
ウォークマンで聴く曲は、もう瞑夜の中で暴れたりはしない。
結局瞑夜は歌を取り戻すことは出来なかったが、それも、もういいと思えるのだった。それよりも自分を守ろうとしてくれた友人と恋人を、今度は自分が支えたい。
両親はとにかく瞑夜を日本から離したいようだったが、彼自身はすぐ戻ってくるつもりでいた。
昨日は雨が降っていたのに、今日はからりと晴れていて気持ちよい。日本はもうすぐ梅雨入りだろう。
そんな事を思いながら空港行きの電車のホームで携帯電話を見ると、雪からメールが届いていた。
『めいや、きをつけて』
雪が保護者の目を盗んで急いで打ったメールだろう。帰りの道中を気遣う言葉が嬉しい。一生懸命文章を打つ雪の姿を想像し、思わず笑みをこぼしながら顔を上げた瞑夜だったが、向かいのホームに知った顔を見つけて青ざめた。
「なんで……」
ずんぐりと大きな図体に、愚鈍そうな瞳。瞑夜を真っ直ぐ見て、にやと厭な感じに笑う。
弟の事件がニュースになったからやって来たのだろうか。いや、それなら普通は姿を隠すはずだ。
瞑夜の戸惑いをよそに、男は何やら瞑夜に向かって口を動かしている。
『お・と・う・と・を・か・え・す・ね』
瞑夜がそれを頭の中で言葉に変換する前に、男は低い段差でも乗り越えるかの軽い様子で、ホームから線路に飛んだ。そして地面に足が着く前に、瞑夜の目の前でおもちゃの人形のように電車に簡単に潰された。
「……ひ……」
男の血に染まった喉から、何かが溢れだす。
イヤホンが外れ、怒号や悲鳴が聞こえた。
「大丈夫ですか?落ち着いてください」
沢山の人に声を掛けられたり、抱きしめられたりする。
瞑夜は人にもみくちゃにされながら、いつの間にか自分が歌っている事に気づいた。
数年間の堰を切るように、止めようと思っても止まらない。
絶叫にも似た、呪いの歌。