第2章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

プロローグ

もう随分と日が長くなってきた。
図書館で先ほど読んだ本の余韻に浸りながら、制服である紺のプリーツスカートを揺らし帰り道を歩く。
夢見がちな彼女は、物語の主人公たちに起こるような出来事が、いつか自分にも起こるのではないかと毎日期待をしていた。
特別頭が良いわけでも、何かの才能に恵まれているわけでも、容姿が優れているわけでもないが、夢見る事をやめられない。
平凡な彼女が、君は特別だと讃えられ、苦難を乗り越え、人を救い愛される妄想。
一方で、そんな日が来るはずもないのだ、早く現実を見ろと囁く声に怯えている自分を自覚していた。


彼女はうっとりとお気に入りのシーンを反芻しながら、通学路を通る汚い用水路にたどり着く。夏になると虫が湧くし、嫌な臭いのする場所だったので、通常はやや足早に過ぎる所だった。しかし、今日に限ってそのまま通過せずに、彼女はぴたりと足を止めた。
微かにピアノの音が聴こえてきたのだ。
聴いたことのない、どこか物悲しく、美しい旋律。妙に頭に引っかかるフレーズがあり、素通りできなかった。
彼女は花の蜜に誘われた蝶のように、ゆっくりと音色を求めて歩き始めた。


建った当時は新しかったのだろう、今は返って古臭く色褪せたデザインの看板が並ぶ通りの奥、イーストガーデンという廃れた庭園施設がある。
庭園施設といっても、行ったことはほとんどないし、何に使われていたのかもよく分からない。ピアノの音は、どうやらその中から聴こえているらしい。
普段、気にしたこともない場所で、その存在すら忘れていた。
しかし、どうしたことだろう。今日は蔦に覆われたそのコンクリートの庭園が、彼女にはとても甘美な場所に感じられた。
彼女の大好きな、物語の気配がするのだ。
彼女の胸が高鳴る。
これこそが、彼女の求めていた物だった。


庭園の中はメインの通路の他に細かい分かれ道があり、所々に階段まであるので、少し迷いそうなくらいだ。その複雑な構造は、彼女にエッシャーのだまし絵を想起させた。
思っていたよりもずっと奥行きのある頽廃的な景観に、視線を巡らしながらゆっくりと歩みを進める。
奥に入れば、ピアノの音も大きくなっていった。当然、ピアノを弾く人間がいるはずだ。
この時間に取り残されたような場所で、一人ピアノを弾く人物を想像し、彼女の緊張と期待ははち切れんばかりだった。



やがて、彼女は少し開けた空間にある、ガラス張りの建物に行き着いた。
ピアノは建物の中にあり、奏者は椅子に座って指を走らせていた。

彼女は最初、その姿を見て女性かと思った。
奏者は長い金髪をうなじで結び、背中に流していたからだ。
しかし、よく見れば、骨格や背丈で彼が男性である事が分かる。
ゆったりした黒いシャツに、細身のスラックスを履いている。
顔を見てみたい。彼女がそう考えた時、まるで思考を読んだように彼は演奏を止め、彼女の方をゆっくりと振り向いた。


息が、止まるかと思った。


蒼ざめた白い肌や淡い色の髪は、外国の血が混じっているからだろうか。
憂いを帯びた翠色の瞳が、硝子玉のように煌めいて彼女を見ている。
端正な薄い唇も、通った綺麗な鼻も、作り物のようだと彼女は思った。
まるで、彼女が小さい頃に読んだ絵本の中から、王子様が抜け出してきたかのようだ。

その青年はしばらく彼女を見ていたが、不意に花が綻ぶように笑顔を見せた。
一瞬で頭に血が上り、彼女は真っ赤になる。
あまりの事に訳が分からなくなり、気が付いたら走ってその場を離れていた。
あまりに夢のような出来事だった。
妄想の中ならば、彼女は微笑み返して彼に歩み寄って行っただろう。しかし、実際はどうだ。
困惑と混乱と期待が甘い毒のように彼女の脳を焼き、全身にまで広がっていく。
彼女はそのまま家まで走り、部屋に帰るとベッドでのたうちまわった。










「だれ?」

先ほど立ち去った少女は気が付かなかったようだが、金髪の青年、瞑夜の足元には真っ赤な髪をワックスで逆立てたケイトが座っていた。
黒光りするごついブーツに包まれた足で、瞑夜の革靴を小突く。

「さあ。るうと同じ制服を着ていたから、友達かと思ったんですが……」

「君のファンだろ」

「何を言ってるんだか」

さらりとかわすが、瞑夜は自分の容姿が人並み以上である事をよく知っている。
ただ、あまり関心がないのだ。
瞑夜にとって恵まれたルックスはただのツールのひとつである。

「最近、この辺りでるうの中学の制服と、近くの高校の制服をよく見る。その全員がオンナ。明らかに王子目当てで、学生の時を思い出すぜ。そのうち、イーストガーデンは王子のファンクラブの集会所になりそうだ」

「……」

「ま、気を付けな。女ってのは子供でも怖いからな」

便所行ってくる。わざわざ言って瞑夜の肩を叩くと、ケイトの硝子の建物を出て行った。
残された瞑夜はケイトが散らかした本やお菓子のごみを見て、ため息をついた。
昔の癖か、放っておけばいいのについ雑誌を片付けてしまう。
その多くは音楽雑誌と男性向けのファッション雑誌だ。
後で借りようと思いながら、彼は雑誌をまとめてピアノの上に置いた。

そんな彼の周りを、いつの間にやら美しい蝶がひらひらと飛んでいた。
ケイトが出て行った時に扉から入って来たのだろう。
薄いステンドグラスにも似た、繊細な模様を見せびらかすように蝶は取り留めもなく羽根を動かしていたが、やがて瞑夜の右手に止まった。
それを、彼は硝子玉の瞳で見下ろす。

「春だなあ……」


ケイトが帰ってきた時、瞑夜は手に付いた埃を払うように掌を叩いていた。
ばらばらになって地面に落ちる蝶の羽根に、ケイトは気付かない。

「お、片付けてくれてたの?」

「ケイトはシドの部屋の文句を言いますけどね、シドは生ごみを捨てるだけちゃんとしてるんですよ!」

「だってさ、ごみ収集車って来るの早くない?」

「もう……」

二人のやり取りが明るく建物に響いた。
時刻は午後5時半を回るのに、未だにぼんやりと空が光っている。
もう、春も本番だ。