第2章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

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医者と言えども勤め人である。
かの悪名高き大病院の医者と罵られようと、患者と雇い主の間で板挟みになる身の上は楽ではない。
そもそも大病院というのも地元ではの話であり、設備も古く、環境も満足ではないのが正直なところだ。
北斗はたまに、この病院を流れのない水の中のように思う。
都会の病院へのつてがない事もないが、この土地を離れるには、心残りが多い。

自動販売機で缶コーヒーを買って、人の少ない非常階段の方へ行く。
休憩中まで人と話したくなかった。
しかし、あいにくとそこには先客の人影があり、すぐさま引き返そうとしたが、先に呼び止められてしまった。

「先生が休憩してるとこ、初めて見ましたよ」

別の科の看護師だ。
内心ため息をつきながら歩みを止める。

「私は他の先生よりしっかり休憩とってますよ。作業効率落ちますからね」

「何だか、脳外の先生らしいな。うちの山下先生なんて、休憩中も仕事やってる」

「山下先生は規格外です。妖怪ですから」

北斗の冗談に、古田と書かれた名札をつけたその看護師は、穏やかに笑った。
北斗は気は優しくて力持ち、という言葉を思い出す。
科の場所が近いため、古田がよく女性の看護師を手伝ったり、子どもや老人と笑顔で話している姿を見ていた。
自分とは程遠い人種だと思う。

ふと気付くと、古田は缶コーヒーを持つ北斗の左手をじっと見ていた。

「ああ、薬指。曲がっているでしょう。骨折した後の処置が悪かったんですよ」

北斗が左手を開いてみせると、古田は黒目がちな小さな目でそれを追う。

「傷とかの痕って、その人が頑張って生きてきた軌跡みたいにボクは思っちゃいます。先生の手、綺麗だと思うな」

北斗は少し黙って古田を見返したが、古田は穏やかに微笑むばかりだった。

「……まあ、考え方は人それぞれかもしれませんね。私は傷はなるべく残さないように努めますが」

「先生はドクターですものね」

あまりこの男と深く関わるのは良くないかもしれない。
そう判断すると、北斗はコーヒーを一気に飲み干した。

「さあ、そろそろ行かないと。お先に失礼しますね」

「あ、はい。……また、東苑寺先生」

話し足りなさそうな男を残し、少し足早に立ち去る。
男が背後でまだこちらを見ているような気配がしたが、故意に振り向かない。
北斗は古田と話してみて、少し意外に感じていた。
大きな体躯に小さな目。その木偶の坊を体現したような見た目から、勝手に頭が弱そうだと思い込んでいた自分を愚かだと思う。
彼の観察眼や独自の価値観、話す様子からは、特殊な知性を感じた。

「フェティッシュ、パラフィリア」

北斗はこつこつと自分のこめかみを叩く。
そこにいたのは偶然だろうが、古田が自分に話しかけてきたのは、何か理由があったのではないだろうか。
なんにせよ、不気味な人物である事に違いはない。

「嫌だ嫌だ……」

そう呟いて、若い医師は暗い蛍光灯の下、リノリウムの廊下の向こうへ消えていった。