第2章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

act.03

夢の中、るうはイーストガーデンの細い通路を走っていた。
どこへ向かっているのか、はたまた逃げているのか、必死に、立ち止まることも考えず、汗を流しながら走る。
走りながら、るうは誰かの歌を聴いていた。
魂を奪うような、禍々しい歌。
けれどその旋律は儚くもあり、少しでも触れたなら、ばらばらに壊れてしまいそうだった。
歌に呑まれそうになりながら走っていると、やがて開けた場所に出た。
そこにいたのは、金髪の少年だ。
彼はるうに背中を向けている。
るうは彼の名前を呼んだが、ついぞ少年はこちらを向いてはくれなかった。








「おはよう……」

傍らにいる真っ白な少年に挨拶をする。

「……おはよ……」

シドはるうを一瞥して、またモニターに目を戻す。
殺風景な10号室には、毛足の長い絨毯と、るうの持ってきた小説しか置かれていない。
二人は居心地の良い絨毯が小さな世界の全てであるように、広い部屋の中寄り添っていた。
壁に穿たれた小さな窓から外の光が漏れ、電気をつけていない部屋はうっすら青色に染まる。
シドが持ってきたノートパソコンのキーを叩く音と、るうが歌う鼻歌以外、とても静かだ。
二人は10号室を「羽根の部屋」と呼んでいた。名前の由来は部屋の鍵についた翼の形のチャームである。
瞑夜とケイトが雑多な物を持ち込んで隠れ家にしているピアノのある建物と比べ、羽根の部屋はシンプルだった。数冊の小説本とシドの使うコンピュータ機器の一部、それと白い絨毯しかない。
ただしるうの周りに小説は不可欠のようで、最近ではシドの家である3号室にも彼が絶対に読まない小説が何冊も並んでいる。

シドは良くも悪くも拒絶をしない人である。
いつ訪れても、少しの抵抗もなくるうを受け入れる。
ただし、自分から望むことはあまりない。
るうとシドはよく一緒にいるが、それは大体るうがシドに会いにくるからで、シドからるうを訪ねたことはなかった。
それが、るうには少し寂しい。

「……懐かしいな」

不意に、シドが言う。

「え?」

「その歌、昔瞑夜がよく歌っていた歌だ」

「ああ」

シドが言っているのは、先ほどからるうが口ずさんでいる歌の事のようだ。
るうは夢で聴いた旋律のつもりだったが、確かに思い起こせば、過去のイーストガーデンで昔の瞑夜が歌っていた曲だったかもしれない。

「るう、あの頃ここにいたの?」

うーん、とるうは首を傾げる。

「……説明するのが難しいから、もう少し待ってくれる?」

「うん」

シドは何の含みもない様子で頷く。
るうはシドくらい純粋で素直な人を知らない。
けれど、純粋で素直なことは、本当に人間の美徳なのだろうか。

「あなたの手、綺麗だわ。お砂糖で出来てるみたい」

るうがシドの手を掴んでまじまじと見る。
ピンクがかった白い肌は、爪の色も淡い。
そういえば彼の手も美しかった。

「……甘くないよ?」

齧られるとでも思ったのか、シドが注意するように言う。

「流石にそれは分かるわ」

るうは苦笑する。
そして、独り言のように言う。

「彼にはこんな風に気軽に触れられなかったのにな」

「?」

「全然そういうのではなかったけれど、なんかどきどきするというか……」

「…………そういう、きもち…?」

「シドはなんだか安心するから」

「…………」

「不思議」

手のひらを合わせると、シドのが大きい。
並んで歩くと、シドはるうの背丈は同じくらいだ。
足の大きさは、声の高さは、髪の柔らかさは、肩幅の広さは、…

「…………」

シドはラクダのような長い睫毛を伏せて、何か考えるような顔をしていたが、

「るう。今、俺を誰と比べていたの?」

ぼそっと呟いた。
るうはそれを聞いて、くしゃりと表情を歪ませた。
そしてそのまま、少しくぐもった声で言った。

「……本当はあなたに隠し事なんかしたくないわ……」

「……うん……?」


ーーでも、やっぱり僕もシドに会いたい。僕は彼に伝えないといけない事があるーー


あの時の、押し殺したような声が耳の奥で響いた。


「私、あなたに言わなくてはいけないことがあるの」

「え……なに?」

「でも、言いたくない……」

彼の強い瞳に比べ、シドの目は眠たげで頼りない。
本当の事を聞いたらシドがどんな風になってしまうのか、るうには怖くて仕方がなかった。
粉々に砕けるか、灰色に濁ってしまうのではないかと思えた。

「……よく、分かんないけど、るうが言いたくなったらでいいよ?」

「うん……でも、ごめんなさい。これは全部私の我儘だから」

シドは少し困った顔でるうの頭を見ていた。
るうが参っているのは分かるが、その原因が不明瞭で力になれなかった。
しばらく寄り添っていると、いつしかるうの小さな肩は規則正しく上下に動き、健やかな寝息が聞こえ始める。

「……寝たの?」

返事はない。
そのまま気が付いたらシドも寝てしまい、二人が次に起きた時には夜中になっていた。





月の光で、むしろ部屋は明るい。
眠たげに目をこするるうの横で、シドは目をしぱしぱと瞬きしている。

「今日は月がすごく明るいね」

るうはそう言って中庭を見下ろすことのできる小窓を覗いた。
最近、紫色の可愛らしい花が咲いているのがるうのお気に入りだ。
天井があるのにどこから種が運ばれてきたのだろう。
そんな事を考えていたるうは、ふと下を見てぎょっとした。
地面の真ん中に、人が仰向けに倒れている。
着ているエプロンドレスは月の光で白く見えた。
長い黒髪は左右の耳の下で結ばれて、美しく地面に散っている。
少女人形のようなその人は、目を見開いて死体のようにそこに寝そべっていた。

「シド」

シドを振り返ると、彼はぼんやりした顔でパソコンを確認しているところのようだ。

「中庭に人がいる」

そこからの反応は速く、彼はパソコンを投げ出すような形で窓の所に駆け寄ったが、その時には中庭には誰もいなくなっていた。

「おかしいな……絶対にいたはずなのに」

「……とても素早い人なんだね」

「でも、寝ぼけて見間違えたのかも……」

「どんな人だったの?」

「可愛い格好の女の子だった」

「そ……」

シドは珍しく眉間に皺を寄せて中庭を見ている。

「中庭、入れるんだね」

るうが言うと、シドは窓を突く。

「あそこに小さな扉みたいなのが見えるから、8号室から入るんだろうな」

「8号室は塔子さんね」

「うん……でもなんか……」

「塔子さんならちょっと変わってるから、やりかねないかも」

「……うん」

「死体かと思ってびっくりしちゃった」

るうは自分の手首をぎゅっと握った。
どちらかといえば冷静な質だったが、心臓がまだばくばくいっている。

「……すごく、違和感がある……」

淡泊なシドが珍しく、苛々したような声を出した。
しかし、ふいっと振り返るといつも通りの無表情に戻っており、るうは安心をする。

「明日、塔子さんに聞いてみよう……」

シドの言葉に、るうは頷いた。