第2章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

act.09

「にいさん、にいさん!起きてよ、瞑夜!」

女の子のような顔をして、弟はなかなか乱暴者だ。
年の離れた兄の部屋にノックもせずに入ると、そのまま仔犬のようにベッドに駆け上がって眠っている瞑夜に馬乗りになる。

「うー……」

「起きてよ!父さんが星を見に行こうって。ねえねえ」

「……行っといで。僕は寝る」

「兄さんも一緒に行こうよ!寝るの早いよ。じいさんみたいだよ」

ついには布団の中にまで潜り込んでくると、瞑夜の身体をくすぐり始める。
これには瞑夜も音を上げて、笑いながら小さな弟の腕を封じるように抑えつけた。

「分かった、起きるからやめてくれ」

「嘘だよ。兄さん、すぐそう言ってまた寝ちゃうんだ」

「困ったチビだな」

「チビって言うなよ。きっと、瞑夜なんかすぐに追い抜かすよ」

「……兄さんを呼び捨てにするような生意気なチビは処刑だよ」

今度は瞑夜が翼をくすぐり始める。
翼はきゃーきゃー言いながら、涙を浮かべて降伏する。
そこに、二人の大柄な父親がやってきて、部屋の中を覗き見た。
望遠鏡と毛布を担いで、とぼけた顔をしている。

「なんですか、キミたち。まだベッドルームにいるんですか。のんびりしてると置いてっちゃうよ?」

そのおどけた物言いに、翼が慌ててベッドから飛び出した。

「ほら、兄さんが起きないからだよ。ねえねえ、父さん。僕にも大きい望遠鏡触らせてね」

「ん〜。どうしよっかな〜」

「ケチ!バカ!恐竜!マンモス!」

幼稚園児の翼がその長い足を蹴っても、父親はびくともしない。

「翼くんがこの前お菓子を食べ過ぎてマミーのごはん食べられなかったの、ダディは知ってるですよ」

「誰が言ったの!ママが言ったの?」

「そういう悪い子はこども望遠鏡も触らせてあげないよ」

「ヤダヤダ!」

「二人ともうるさいよ……」

瞑夜はうんざりとした声を出す。
ここに天然の入った母親が入ると、余計にうるさくなる。

「瞑夜くんは最近学校をサボってどこ行ってますか?」

「いっ!!?」

思わぬ一撃に振り返ると、父親は相変わらずとぼけた半目で瞑夜を見下ろしていた。

「兄さん、学校サボってるの?やるじゃん」

「ケイトくんとデートしてますか」

「ケイトはそんなんじゃないよ!」

「えっ?兄さんケイトとできてんの?」

翼がはしゃいだ声を出す。
瞑夜は生意気な弟の頭を小突こうとしたが、ひらりと器用に逃げられてしまった。

「ケイトくん可愛いしね、仕方ない」

「ちが……」

「えー僕はケイトみたいな女やだけどな……」

「翼くんはミニカーがGirl friend」

「なにそれ!僕、彼女いらないもん。女とか興味ないし!」

「ホッホッホッ!翼くんはレゴが友だち」

「ちがう!」

「もう、着替えてるから二人とも出てって!」

ばたんと閉まった扉の向こうに、弟と父親の姿が消える。
途端に、静かになる。




振り向くと、いつの間にかそこには四人掛けの食卓がある。
弟が、いつの間にか少し成長しているようだった。
ペンダントランプが、卓上を温かく照らしていた。

「お兄ちゃんも早くいらっしゃい。今日はお兄ちゃんの好きなホワイトシチューよ」

「うん」

母親のこんな穏やかな笑顔はもう何年も見ていない。
笑顔で自分の席に着くと、瞑夜は両手の指を組んで目を閉じた。
Our Fatherで始まる食前の祈りを父親が唱える。
瞑夜は知っている。自分の目の前に座っている小さな弟が、この行為を軽んじていることを。
ただ馬鹿にしている訳ではなく、恐らくは信仰とは何か、宗教や神がどんなものか理解した上での事だろう。
弟と同じ歳の頃、瞑夜はなにも考えずに無邪気に親の言うことを受け入れていたはずだ。
この頃から瞑夜は、たまに弟が観察するように人をみているのに気付くようになった。
ひょっとすると瞑夜が知ったのが遅かっただけで、最初から弟はそんな風だったのかもしれない。

末恐ろしい。

目を開けば、猫のようなつり目で翼がこちらを見ている。
兄の贔屓目を差し引いても、弟は特別可愛らしい子どもだ。そして、今まで見た中で最も賢い子どもだった。
目に見えるようなスピードで、弟の精神が熟していく様が分かった。
既に、翼は兄を純粋に尊敬し慕うような子どもではないだろう。
実の兄すら天秤にかけ、自分がじきに追い抜かす存在である事を知っている。

非凡な弟と、平凡な兄の話だ。
二人は歳は離れているが仲の良い兄弟だと、そう思われていた。
愛情が畏敬に変わり、更にそれが恐怖になるのではないかと、平凡なりに予感していた。
それも、ずっと前の話。




「嫌な夢……」

お湯を沸かしながら、夢の内容を反芻する。
かれこれ3日ケイトと会っていない。
向こうも瞑夜を避けているのだろう。

腰までの金髪を緩く束ねて首の横から前に流す。
面倒臭いのでシャツ一枚でいたが、インターホンが鳴ったので麻のパンツを適当にはいた姿で出る。
そこには、最初に会った日よりもカジュアルな格好をした雪が立っていた。

「……ああ、君」

「おはよう瞑夜」

「今日は保護者と一緒じゃないの」

「北斗さんのこと?お仕事だよ?」

瞑夜の皮肉も気づかないでそのまま返事をすると、雪は興味深そうに首を伸ばして瞑夜の部屋を覗きたがった。
瞑夜は静かにため息をつく。

「入る?」

「う……」

「心配しなくても何もしないよ」

扉を大きく開けてやると、雪はあからさまに瞳を輝かせる。
瞑夜は少し笑った。

「紅茶の一杯くらいは、淹れて差し上げますよ……」




元々ピアノを入れるつもりだったから、家具も最小限だ。
瞑夜の部屋はケイトや北斗の部屋よりも無機質でそっけない。
クローゼットや机がアンティークなのが、まだシドの部屋よりは温かみのある部屋に見せていた。
雪は足を投げ出して、フローリングの床にぺったりと座っていた。
何故かケイトといいシドといい、床に座りたがるのが不思議だ。

「砂糖は?」

「いっぱい」

「ミルクは?」

「いる」

瞑夜がミルクティーの入ったカップを手渡すと、雪は両手でそれを受け取った。
熱いからか、じっと水面を眺めている。
爪先までピンク色に染められているのを見て、瞑夜も少し遠くに腰掛ける。

「……君、男の子なんだね」

雪が顔を上げる。
あまり表情がなくて、格好も相まってアンティーク人形のようだ。

「でも、普通の女の子より雪のが可愛いでしょ?」

「……そうかもね」

平然と言い放たれた言葉に呆れながらも、頷いてやる。
性別が分かった後で見ても、俄かには信じられなかった。
まず、首や肩の細さが男のそれではない。幾つになるのか、変声期もまだだろう。

「瞑夜は雪のこと、覚えてないんだね」

「……それについては申し訳ないけど、あの頃はちょっと記憶が曖昧なんだ。でも、あの時君はまだ男の格好をしていたよね」

「うん」

雪はこっくり頷く。

「最初に言うと、僕は男性を好きにはなれない」

「…………」

「でも、好きなふりならできるかな」

雪は感情の分からない表情のまま、瞑夜を見ていた。
くるりと上向いた長い睫毛が瞳に影を落としている。

「君って外側だけなら女の子にしか見えないし。ごっこ遊びでいいなら『大好き』にもなれるかもね」

「……それで、いいよ」

あっさりと返事をされ、半ば拍子抜けする。

「鍵は、君が満足したらでいい。使わせて貰うのも、一度でいい。でも、君のおじさんに殴られるのはごめんだから、このことは黙っててくれると嬉しい……」

「……うん」

二次元の美少女が現実に現れたかのような、人に愛されるためのフォルム。
男の彼がどうしてそこまでするのか、瞑夜には理解しがたいことだった。
それとも彼もケイトのように、身体と心の性別が違うのだろうか。

「雪、瞑夜にお手紙書いてきたよ」

雪は小さな羽根の生えたポシェットから淡い水色の封筒を取り出して渡した。
うさぎの形のシールで封がしてある。

「おへんじ、くれたら嬉しいな」

もうごっこ遊びは始まっているようである。
瞑夜は手紙を受け取った。

「分かったよ。読んだら、返事を書いて君に渡す。それでいいかな」

瞑夜がそう言うと、その日初めて、雪は笑顔を見せた。