第2章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

act.12

また一睡もできずに朝を迎えてしまった。
瞑夜はベッドの上で上体を起こし、徐々に色を変えてゆく空を虚ろな瞳に映していた。
瞬きすらおっくうで、それでも目を瞑ってみるとじんと淡い痛みが広がる。立ち上がったら身体が砂になってしまいそうだったが、少量の水を口にする為にゾンビのようにぎこちなくベッドを出ることにした。
水差しを取る途中、付けっ放しのパソコンを触って、少し指を彷徨わせ、音楽をつけた。
エリック・サティの『あなたが欲しい』。
ケイトにもらった曲は、あれから何度も聴きたくなったが、再生ボタンを押す前に指を止めている。聴いたら歌いたくなるからだ。

歌を失った日の事を、あんなにも印象的な出来事にも関わらず、瞑夜はあまり覚えていなかった。断片的な記憶や大きな流れは覚えていたが、どこか他人事のようで頼りない。
最近見る悪夢や幻は、その記憶を取り戻しているように思えた。
あの日の記憶を取り戻すと、一緒に生前の弟の事も思い出した。それはほとんどが苦い思い出で、例えばそれは、こんな事だ。
ある時、瞑夜はイーストガーデンで弟を見かけた。
そこはイーストガーデンの中でもやや奥まった場所で、弟たちは少し遠くにおり、声を掛けるには躊躇われる距離だった。数人の友達と、それから背の高い成人男性といるようで、少しだけ妙に見えた。
瞑夜が見ていると、彼の弟はポケットに手を突っ込んだまま、軽く小回りをきかせ傍らにいた男性の脚を蹴る。男が呻きながら倒れると、周りにいた少年たちが笑い声をたてた。
いじめを受けた経験のある瞑夜には、身の竦むような光景だ。
そうしているうちに、皮肉そうに笑っていた弟がこちらに気がついた。
てっきり取り乱すかと思いきや、彼は笑みの種類を変え、口元に人差し指を添えた。
その後も、まったく弟の態度は変わらなかった。


弟が、自分の事をどう思っているのか考えると怖かった。
弟が、何を考えて生活しているのか考えると怖かった。
弟が、これからどんな風になってしまうのか考えると怖かった。
昔はあんなに可愛かったのに。
もしかしたら、幼い頃から本当は欺かれていただけなんじゃないだろうか。
そんな風に思ってしまう自分が情けなかった。

そんな弟の様子が、ある時から変わった。
付き合う友達が変わり、生意気な素顔をあまり隠さなくなった。
ずば抜けて優秀なのは変わらないが、反応には年相応の少年らしさが伺える気がして微笑ましかった。
あの時期の彼が本来の弟なのか、それとも偽装が上手くなっただけなのか、もう確かめる事はできない。
弟がいなくなり久しいのに、瞑夜は過去に生きているような気分だった。


ふと外を見ると、ケイトがイーストガーデンの中を歩いていた。
今日は雪に部屋が譲られる日だと聞いていたが、そのためかもしれない。ケイトがいるのは、7号室に続く道だった。
そういえば、と瞑夜はまた記憶を巡らす。
自分は何故隠されていた7号室の位置を知っていたのだろうか。
ケイトも知らないはずの場所を知っていたのは、偶然だったように思う。
確かあれはまだ名前隠しのゲームが始まる前に、たまたまケイトの叔父が歩いているのを見かけてついて行ったのではなかったか。
ケイトの叔父は、誰かに7号室を紹介しているようだった。
少し焦って、けれど自慢げに、饒舌に話す姿は、いつも瞑夜やケイトに見せるあの戯けた態度とはまるで違う。
尾行するつもりはなかったが、なんとなく死角から彼らを見ていると、ケイトの叔父は7号室に客人を伴って消えた。
「きっと貴方は気にいると思いますよ」

後日瞑夜が行くと、そこは鍵がかかっておらずあっさりと入れた。
本当に独りになりたい時に使う場所として誰にも言わずにいたが、それがこんな因縁の場所になるとは思っていなかった。

気が付けば長く思い悩んでいたらしく、部屋を満たしていた音楽は消えていた。
今日は妙に静かだ。
静かなのが好きだったはずなのに、何故かとても焦燥的な気持ちになる。

「誰か助けて……」

口をついた祈りの言葉は、誰もいない乾いた部屋の中でばらばらになって消えた。