act.05
地面に置いたノートを覗き込む彼の、長い睫毛が頬に影を落としている。
『ここにどうしても行けないんだよね』
そっと呟いた声に、シドも彼が鉛筆で描いた図面を覗き込む。
とても小学二年生が作成したとは思えない、精巧で見やすい図だった。
彼が言っているのは、綺麗な桃色の花の木が生えている一区画の事らしい。
イーストガーデンは子供らにとって言わばゲームのダンジョンで、男子は特にその全貌の解明を目指して探検するのを好んだ。
彼ら二人も例に洩れなかったが、がむしゃらに歩き回るのではなく、予想を立てて検証していくやり方が暗黙の了解となっている。
『ここから行けば、行けないかな……』
シドが絆創膏の巻かれた白い指でノートを辿ると、彼は驚いたように顔を上げた。
『きみ、天才!』
そう言って笑い、白い歯を零す。
頭がキレて、運動神経も良く、見た目も綺麗な彼から信頼を得ている事が、シドには誇らしいと同時に不安だった。
何故なら、シドには何も誇れる部分がない。
ただ少し算数が得意な子供だっただけだ。
彼との思い出は、つい先ほどあった出来事のようにシドの胸を焦がした。
きっと彼も、今頃背が伸びているだろう。
彼としたい話が、沢山あった。きっと今なら、イーストガーデンを二人で解明できるだろう。
「あ、シドに部屋の鍵をあげないとな」
ケイトの声で現実に戻される。
シドは首に下げていた雪の結晶のマークの付いた鍵を摘んで見せた。
「……鍵ならあるよ?」
するとケイトはちっちっちっと指を振って言う。
「その鍵も使えないことはないけどね。今時そんなセキュリティじゃ心配すぎるだろ。普通の鍵もついてんの」
ケイトはピアノの上に置いていた、大小沢山の鍵の束をじゃらりと見せた。
その中にはかなり複雑な形の鍵もある。
「スペアキー渡すから一回家来てくれる?」
シドはこっくり頷く。
「じゃ、瞑夜はここのスペア渡しとく。ここは防音じゃないから、夜は我慢してくれよ。それじゃ、ごゆっくり」
「二人とも、運ぶの手伝っていただいてありがとうございます」
ケイトとシドが外に出ると、さっそくピアノの音色が聞こえてきた。まるで泉の波紋が広がっていくような、静かな音だった。
「月光、だっけ」
独り言のようなケイトの言葉に、シドは首を傾げる。
「瞑夜、昔みたいに歌わなくなったな」
「……そうなの?」
「俺、あいつの歌が強烈だったから音楽始めたんだけど」
ケイトと瞑夜は同じ学年で、昔から良く一緒にいた。正反対に見えて気が合うようだ。
「なんか歌えない代わりに弾いてるみたいだなって。音楽がないと生きられない身体って、本物って感じする」
「……ホンモノ?」
「俺みたいのは偽物かな。替わりがきくし。まあ、これでも一応真面目にやってんだけど」
「ふうん?」
シドにはよく分からない話だった。
「そういえば、荷物はそれだけなのか?」
それだけ、とはシドが持っている鞄のことだろう。この中には小さめのノートパソコンと、財布などの必需品しか入っていない。
「……残りは明日届く予定だよ」
「そうなんだ。そういや、シド今何歳だっけ」
「……明日、14になるよ」
「え、明日?明日ってクリスマスじゃん。てか、中学生?」
「……学校はあまり行ってないけどね」
ふうん。とケイトは頷く。
「まあ、俺も高校卒業してぶらぶらしてたからここの管理任されたんだけどね」
「……瞑夜は?」
「つい最近までイギリスにいたらしいな。まあ、幼馴染つっても、つい3日前再会したばっかだし最近のことはあまり知らないんだけどね」
「そうなんだ」
二人は随分息が合っているように見えたので、頻繁に連絡を取り合っているのかとシドは思っていた。
「でもさ。このタイミングに瞑夜とシドが越してきただろ。もっと来る気がするよ。勘だけど」
「……もっと?」
「そう。鍵持ってる奴ら。気がするだけだけどね」
ケイトはにっと笑ってシドの頭をパーカー越しに撫でた。
話しているうちにイーストガーデンの裏、アパートの前に着く。
「俺の部屋は一階の左側。シドの部屋は二階の左だな。瞑夜は三階の左。上がうるさかったら俺に文句言いな」
「……うん」
シドの鍵には3と書いてあった。どうやら、一階の左から順番に番号が振られているのかもしれない。
この建物は三階建てだ。
「アパートはここだけじゃなくて、ちょっと見にくいけど、反対側にもう一個ある。こっちは住所の通り、『パロル館』。あっちは『エクリチュール館』って呼ばれてる」
「えくりちゅーる館にも人が住んでるの?」
「エクリチュール館には一人住んでるね。あ、パロル館にももう一人住んでるよ。4号室だからシドのお隣さんだ」
「……挨拶とか、行った方がいいのかな……」
「うーん。行ってもどうせ会えないと思うけどね。エクリチュール館の11号室とパロル館の4号室は、逆の意味で姿を見ないんだよね。片や引きこもり、片や外出で。管理人としてはちょっと困ってるんだよね」
じゃあ鍵を取ってくると、自室に消えたケイトを見送り、シドは木に埋もれててっぺんしか見えないエクリチュール館を眺めた。
瞑夜は赤く染まった空を眺め、それから視線を落とし、すぐ横にあるお話ひろばを眺める。つい、子どもが走り回っている幻影が見えてきそうだった。
歌いたいのに、声が出ない。
逃げ場をなくした感情が指を伝い、音を奏でる。
まるで瞑夜の腹の中を暴くかのように、旋律は激しく、禍々しく、力強くなっていく。
まるで暴力を振るうように鍵盤を叩く彼は、いつの間にか静かに部屋に入ってきた存在に気がついていなかった。
その人物は瞑夜の演奏が一区切りつく頃に「寒くないのか」と声を掛けた。
「あ、ケイト。すみません、夢中になっちゃって」
「王子にしては激しい曲だったな。そろそろ日が暮れるから止めに来た」
「……ありがとう」
瞑夜は微笑んで、鍵盤にベルベットのカバーを敷く。
「シドだけどさ……」
「シドがどうかしました?」
「いや、昔のことあるし。心配っつーか」
「……ああ」
「ま、いいや。明日は俺が連れ出して遊んでくる。誕生日らしいから、夜は3人で飯食おうぜ」
「……イエスキリストと同じ誕生日、ですか」
「覚えやすくていいな」
二人は笑いながら入り口の施錠をする。
冷たい建物の中、ピアノが寒そうに見えた。
「ちなみに王子の誕生日も?」
「3月14日。ホワイトデー」
「マジで覚えやすくていいな」
二人はまた笑いあった。