第1章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

act.06

落下していく。
ゆるゆると、眠ってしまうくらい、ひどく緩慢な落下だ。上昇気流というやつが影響しているのかもしれない。

『不思議の国のアリスって知ってる?』

あんな有名な話、知らないはずがない。
でも、そう言って笑ったのは誰だったろう。
現れては去っていく、ティーカップやクッキー。レースのリボンやうさぎのぬいぐるみ。
甘い紅茶の匂いが、記憶のどこかを刺激する。焦げたような据えたような匂い。
あなたの言葉のせいでアリスのように不思議な穴に落ちてしまった。でもあなたってどちらかと言えばうさぎより猫って感じね。
るうは落ちながら、目の前のレースが紅茶を吸ってじわじわと変色していく様を見ていた。
淡い色の髪、形の良い長い脚、つんと尖った鼻、頬に影を落とす長い睫毛。大人びたすまし顔の裏からたまに浮かび上がる、残酷で純粋な、いたずら好きな本性。
ティーカップを持った少年の姿はるうの頭の中でゆらりと歪んで、いつしか別の人間を映し出した。長い髪の、涼しげな微笑み。

彼女との思い出は、思い出というには淡すぎた。背中に感じる微かな熱や、そこにいるという安心感。彼女は、存在というよりも気配。るうに寄り添う影のようだった。
彼女と一緒にいた時間はそう長くないはずなのに、彼女との記憶が喪われるたびにるう自身が薄まっていってしまう気がした。
それが酷く心細く、冷たい。

草の生えた土の上に、るうの身体が軽い音を立てて着地する。
るうが起き上がる前に誰かがやって来て、彼女の上に影を作った。
その誰かが、、しゃがみ込んで彼女に耳打ちする。



『このゲームで、名前を取られては駄目よ』



夢とは思えない生々しい声に、るうは飛び起きてそっと両耳を覆った。
ハルシオンと初めて紅茶を飲んだ日の帰りに、るうは貧血で倒れてしまった。それ以来、こんな意味不明な変てこな夢を度々見るようになっている。
夢を見るたび、まったく似ていないはずのハルシオンとノアの境界線が解けて重なる。
るうは首を振り、その印象を振りほどく。




街は日に日にクリスマスムードが色濃くなり、それはるうにとっては冬休みが近付いているということでもあった。
あれから塾のない日はハルシオンの母親の店に寄って、紅茶を一杯飲んで帰るのが日課になりつつある。
ハルシオンは大抵、イーストガーデンの最初の広場のどこかにいるか、店で紅茶を飲みながら本を読んでいる事がほとんどだ。そして彼女を見ると、来る事が分かっていた、というように目を細める。

ハルシオンは不思議な少年だ。
同世代の男子のように粗野でないし、くだらない事にムキになったり、デリカシーのない態度を取ったりしない。かといって少女のようでは全くなく、たまに取る大胆な行動や考え方が、彼の繊細な容姿にそぐわないほどさっぱりしていたりする。
るうはハルシオンの本名や年齢を知らないし、ハルシオンもるうの住所や家族構成などの現実的な話に触れてこなかった。
二人は向いあっててんでバラバラの本を読み耽っている事もあれば、時にはシャボン玉を飛ばして子供っぽい遊びに興じる事もある。
よくよく考えれば不自然なところだらけのハルシオンだが、彼といる時間は、るうはとても自然な気持ちで過ごす事ができた。


「変な夢?」

「そう。名前を取られちゃだめなんですって」


夢の話を聞いたハルシオンは、少し面白そうな顔をする。
初日にハルシオンがるうのポケットに忍ばせた翼のチャームの鍵は、今日も細い鎖に掛けられてるうの首にぶら下がり、たまにゆらゆらと照明の光を反射している。

「それってもしかしなくても僕とのゲームの話だよね」

彼は頬杖をつきながら、るうの目の前で殺人的な量の角砂糖をティーカップに落としていった。

「そう…だと…おもう…けれど。……ハルシオン、糖尿病になる」

「だってこのお茶渋いからさ」

「クッキーを食べなさいよ」

以前、彼女がなんの緊張もせず、こんな風に紅茶を飲んでいた相手はノイだけだった。
ハルシオンとの時間は穏やかで、るうは時に感謝するくらい救われていたのだが、その一方で小さな罪悪感と恐怖を覚える。

「ねえ、ハルシオン。あなたははあの友だちといつ会ってるの」

「……今は会ってないよ。遠くにいるの」

「そう。その子ともこうやってお茶を飲んだの?」

「……」

お茶を飲み干して不味そうな顔をした彼は、その後まっすぐるうを見据える。
ハルシオンの目は大きくてとても印象的だ。
アーモンド型に開かれた瞳の色は淡いが、眼光がとても強い。目尻が上がっているところなど、巻き毛の茶髪と相まって毛足の長い猫を思わせる。
柄にもなくどきっとしたるうは、誤魔化すように紅茶を口元に寄せた。
きっとハルシオンは学校ですごく女の子に人気だろうと思った。

「あいつとは紅茶を一緒に飲んだことあるけど、あいつ、舌が馬鹿で何食べても何飲んでも一緒の味するとか言うんだよね」

「……そ、そう」

「あと、あいつは本を読まない。専門書以外は。想像力が致命的に欠如してるから、国語はいつも赤点。君みたいに本の感想は言い合えない」

その辛辣な言葉に、るうは思わず噴き出してしまう。

「何、何か笑うようなとこあった?」

「だってハルシオン、それって貶しているようで、のろけみたいなものだから」

「惚気って……僕は呆れてるだけなんだけど」

「いいよ。ハルシオンにも可愛いとこがあるって分かった」

「何それ!」

いつもの澄まし顔を慌てさせる事ができて、るうは少し面白くなった。
ハルシオンはいつもの調子が出ないのか、むすっとして横を向いている。

「でも、そっか。私はその子と似てないのね」

「全然似てない」

「ハルシオンとノイは、やっぱり全然似てないけど、ちょっとだけ似てるよ」

るうの言葉に、そっぽを向いていたハルシオンが顔を戻した。

「どこが?」

「あなたの手、傷ひとつない。ノイだって怪我をしたら血がでるけど、それまでは作り物みたいに綺麗だよ。あなたの手みたいに。それから、私はあの世界以外では、あなたとしかこんなに穏やかな時間を過ごした事はない」

「……」

「あなたに失礼な事を言ってしまうかも。……私は、いつかあなたといることに満足してノイを忘れるのが少し怖いと思ってしまった。あなたを、私が作り出した妄想なんじゃないかとも」

ハルシオンは怒らないだろう、冷静に返事を返してくれるだろうと、どこかで甘えた気持ちがあったかもしれない。
案の定ハルシオンは気を悪くした様子もなく、砂糖粒の残ったティーカップの底をスプーンで突きながら、のんびりとした声で言った。

「君は友人を忘れる事が、罪だと思うかい?」

「少なくとも罪悪感を持つわ」

「どうして?」

「……だって私が、もし私の友だちが私を忘れてしまって、全然違う誰かと私と遊んでいた時のように楽しそうに過ごしていたら、やっぱり悲しいと思うから……」

「じゃあ例えば君の友人と君が離れ離れになって、君の友人が君に会えない事ですごく苦しんでいたらどうだい」

「……それは」

「君がノイと会えず苦しいのと同じくらい、ノイに同じ苦しみを求める?新しい妹ができる事を嫌だって思う?」

るうは苦しそうな顔でハルシオンを見た。
ハルシオンは穏やかに微笑んでいる。

「……私は綺麗事は言えないわ。私は誰とも同じじゃない。もし、ノイと二度と会えなくて、それでノイに苦しんで欲しいとは思わないけれど、忘れて欲しくもない。ノイに大切なひとが出来たとしても、時々私のことだけを思い出して会えない事を悲しんで欲しい。それってそんなにいけない事かな。私も、ノイを忘れない」

「二度と、会えなくても?」

「二度と、会えなくても」

ハルシオンはそれでちょっとだけ困ったような表情をした。そしてまた笑う。

「ごめんね。ちょっといじわるな問いかけだった。……僕はね、るうとは違う考え方だ。僕の友だちが僕がいなくて苦痛を感じるなら、誰かがその穴を埋めて、友だちを慰めてほしい。そう思うよ」

「……私はあなたみたいに達観できない」

「それでいいんだよ。それだから、君は魅力的なんだ。君の願いは、真っ直ぐで純粋で強い。僕は好きだな、君の考え方」

「それって馬鹿にしてない?」

「してないよ」

ハルシオンはくすくすと笑って、アイスの乗ったスプーンをるうの口元に差し出す。るうはメガネごしにハルシオンを睨んで、差し出されたスプーンを咥える。

「餌付けでもするつもり?」

「さあ。ところで僕の名前、本当は山田太郎っていうんだけど、君の本当の名前は?」

「言わない」

ハルシオンが度々投げかけてくる分かりやすい引っ掛けは、二人にとってはもうお決まりの流れだった。
るうは、ハルシオンの本名が本当に山田太郎だったら、それはそれで面白いと思うのだった。










「今日は私服なんだ」

「昨日からお休みだから」

キャラメル色のダッフルコートに、赤いチェックのスカート。白のカシミアのマフラーと厚手の黒いタイツで防寒はばっちりだった。
ハルシオンはシャツに薄手のセーターを着ている。外気にさらされた手や膝小僧は、眩しい程白い。

「休日なのに来てくれたんだ?」

「今日はクリスマス・イヴよ、ハルシオン」

「……そうだっけ?」

「あなたって気温に鈍いし、時間にも鈍そう」

はい、と鞄から出した包みを渡すと、ハルシオンは目を丸くした。本当に意外だったようで、ハルシオンがぼんやりとしている姿は珍しく感じる。

「……開けていいの?」

「どうぞ。それはもう、あなたのものだし」

そうは言ったものの、あげたプレゼントを目の前で開けられるのは、どうしてこんなにきまり悪いのだろう。
るうは白い息を吐いて、プレゼントを開けるハルシオンから目を逸らすように今日は一層華やかな店の中を眺める。

「これ、マフラー?」

マフラーを取り出したハルシオンは、もう驚いてはいない。

「そう。あなた、いつもそんな格好しているから見てるこっちが寒くなってくるから」

「あはは。ありがとう」

ざっくりとした網目の、長い臙脂色のマフラーは、華奢なハルシオンが巻くと、まるでマフラーに巻かれているように見えた。

「どう、似合う?」

「マフラーが長すぎたかもしれないと思ってる」

二人はショーウィンドウに映ったハルシオンの姿を見て笑った。





「クリスマスにプレゼント交換をしたのなんて、久しぶりだ」

ハルシオンが珍しくにこにこ笑っているので、るうも悪い気はしなかった。
当日の思いつきだが、成功だったようだ。

「あら?私はあなたからプレゼントもらってないけど?」

「鍵をあげたじゃん」

「ええ……」

冴えない表情のるうを見て、ハルシオンは面白そうな顔をする。

「じゃ、中身もあげるよ」

まるでお菓子でもあげるかのように、簡単な調子で言う。中身って何だろう。鍵が建物の扉の鍵だったら、何をどこまでくれるのだろう。

「……変なものだったら嫌だな」

「多分、大丈夫だと思う」

「多分って……」

石でできたベンチは霜が張っていて冷たそうだ。座っているハルシオンを信じ難く思いながら、るうは首に細いチェーンでくくりつけていた鍵を取り出した。

「そろそろ、ゲームなんだし探し始めようかな」

「それがいい」

手始めに近くにある店の扉が開かないことに気づき、鍵をあてがってみるが、これは見るからに不正確だった。
店についている鍵穴はこんなアンティークの鍵が刺さるような大振りな形はしておらず、るうの家の鍵と似たような穴の形をしている。
扉を探してしゃがんだり背伸びをしているるうを見て、ハルシオンはくすくす笑っている。

「扉の鍵、とは限らないんじゃない?」

「……ヒント、まだいらない」

「るう、君の名前はあ行から始まったりする?」

「こっちも何も言わないわよ」

るうが軽く睨むと、ハルシオンは愉快そうに口笛を吹きながらどこかへ消えた。
彼がいなくなると、華やかなイーストガーデンは人の気配が薄いことが浮き彫りになり、少し怖くすらある。

メイン広場を入り口から右手に進むと、丸いシルエットの大きなクリスマスツリーのある、やや小さな広場に出る。
その横にある建物は他と比べ大きく、ガラス張りで近代的に見えた。デザイン事務所などだろうか。
入り口は二つあったが、どちらの鍵も違うようだった。

「そう簡単には見つからないか……」

ハルシオンの事だ、ものすごく分かりにくい場所にある事も考えられた。
念のためツリーの辺りも調べて何もない事を確かめ、アーチをくぐり戻ってくると、違和感でるうは首を傾げた。
本来なら向かって左手側にあるはずの、イーストガーデンに入る入り口がなくなっている。そこには見た事もない蝋燭が沢山並んでいる店が建っていて、ツリーの広場が一方通行であることから、明らかに構造が変化したとわかった。

るうは不安な気持ちになったが、それでも冷静に辺りを観察する。
サンタのクッキーも、宝石の棚も見覚えがあった。
試しにハルシオンの名を呼んでみたが、反応はない。
店主も客もいない。どの店も鍵が閉まっている。異常だ。
ふと見た店のショーウィンドウに飾られたドレスを見て、るうは自分の目を疑った。
それは、真っ白でシンプルなワンピースだった。あの頃より大きなサイズになっているが、デザインは同じだ。

「なんで、私の……」

ノイと過ごした頃に着ていた物に相違ない。
思わず店の扉を乱暴に引っ張ると、予想に反してすんなり開いたので転びそうになってしまった。

カウンターにフィッティングルーム。大きな戸棚にはアクセサリー類も置いてあるが、主に場所を占めているのは色とりどりの生地だ。小さな店の中にある完成品はあのワンピースだけだった。
普通に考えれば、店の物を勝手に持っていくのはいけない事だ。
しかし、彼女は確信していた。それは、彼女のものだった。

「どういう事なのか、さっぱりだけど……」

るうは荷物を置くと、覚悟を決めてマネキンのドレスを脱がしにかかった。