第1章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

act.10

その扉を開くのは、躊躇われた。
友だちの見てはいけない部分を見ているような気持ちになったし、何よりこれ以上自分の知らないハルシオンを知るのが怖くなっていた。

「さあ、どうするかね?」

男の声がるうを焦らせる。
るうは胸元の鍵を握り、歯をくいしばる。
このまま続きを知らずにいたら、るうはハルシオンを信じきれなくなるだろう。
例え、扉の先がさらなる最悪であっても、留まるよりはマシと思えた。

「行く……」

るうは本名の2文字目を言った。
これで、名前の残りは1文字だ。

「それでは、どうぞ。お嬢さん」

丸眼鏡の男が恭しく開く扉に、るうは進んだ。






扉を抜けて最初に、暖かい。とるうは思った。
花の匂いがする。風が優しい。
コンクリートの壁を超えて、向こう側にある木の桃色の花が見える。
子供たちの嬌声が遠く聴こえ、そして、その更に遠くから、歌声が聴こえた。
それは高く澄んだ歌声で、けれど、綺麗なだけではなかった。どこか不安定な感じがして、その不安定さがどうしても気になってしまう。気になってその原因を探すうちに、いつの間にか癖になっているような、不思議な歌声だ。
るうは自然と歌声に惹かれるように歩き出した。
迷路のように枝分かれした細い道を進むにつれ、歌声は大きくなってゆく。
何て歌声だろう。魂を奪われてしまいそうだと、るうは思う。
優しいのに容赦がなくて、美しいのに汚い。弱々しいのに人を掴んで離さない。魔性の歌声だった。

やがて、るうは少し開けた場所に出る。
子供の遊具らしい小さな二階建ての塔の前に、彼は立っていた。
るうは最初、その男の子が自分を見ているのではないかと思い、ぎょっとした。
天使、と言って遜色ないような見た目の男の子だった。
とても柔らかい表情で歌っているのに、彼の歌声はるうには負の魅力を持っているように感じられた。
るうは彼の前に立ち尽くし、彼と合わない目を合わせるように歌を聴いていたが、そのうちに男の子はふっと歌を止めてしまう。
るうはそれを残念に思った。

「また歌ってんの、王子」

塔の二階から身軽な様子でパンキッシュな格好の赤毛の子が飛び降りた。
その存在に気付いていなかったので、るうにはいきなり現れたかのように見えた。

「……その呼び方止めてって言ってるでしょう」

王子と呼ばれた男の子は半眼になって赤毛の子を睨む。
二人は、るうよりも少し歳上くらいだろうか。
赤毛の子はいかにも一匹狼という感じで、クールそうな顔をしている。王子と呼ばれた子は上品な優等生タイプだ。正反対そうな二人は、意外にも一緒にいると魅力を引き立て合っているように見える。

「んじゃ、あれだ。イバラの方」

「……その名前もなんだか。この遊び早く終わればいいのに」

「いいじゃん、似合ってるよ。てかさ、顔もいいんだしその名前でメジャーデビューしろよ。ぜってー流行る」

「は、冗談でしょ」

二人を見ているうちに、るうは赤毛の子が女の子である事に気付く。
低い声を出しているし、背も高いけれど、首は細くタイトなレザーパンツの腰のラインは女性の物だった。

「俺が冗談言ったことあるかよ」

「存在そのものが冗談みたいなものじゃないですか」

「あははは。ひっど!」

面白がるような彼女に対し、彼は少しつれない。彼らは一体何なのだろう。
そう思っていると、先ほどるうがやって来た道からランドセルを背負ったハルシオンが元気よく走ってきた。

「兄さん。ケイトもいる」

「よう、ハルじゃん」

「ケイト、学校行かないと留年するぜ?」

「よけーなお世話」

赤毛の子はぐりぐりとハルシオンの頭を撫でる。ハルシオンはやめろと言いながら笑い声を立てた。
歌っていた男の子、恐らくハルシオンの兄だろう彼は、そんな二人を見て肩をすくめながら自分の鞄を取りに行く。

「あ、兄さん。母さんが今日は6時に帰るってさ」

「わかったよ」

返事をしながら、彼は鞄から取り出した綺麗なお菓子の包みをハルシオンに渡す。
受け取ったハルシオンはにっと笑った。
そして、

「ありがと」

礼を言うや否や、また来た時のように走り去ってしまう。

「ガキは元気だねえ」

「本当に」

るうは後ろ髪を引かれつつも、ハルシオンを追いかけることにした。





子供らしくランドセルを揺らして走っていたハルシオンは、途中で走るのを止めて、ランドセルを片方の肩で背負い直した。
ふあ、と欠伸をした彼が辿り着いたのは行き止まりで、何かと思って見ていれば、ハルシオンは子供がやっと入れるくらいの隙間に身体を滑りこませて壁の向こう側へ行ってしまった。
るうには入れなかったので、中を覗いてみる。
そこは2畳程度の空間で、何故か錆びついたパイプベッドが置かれていた。
ハルシオンはその上に座って、ランドセルから出した本を読み始めた。
ここはどうやら、彼の秘密基地らしい。


るうは後ろを向いて、それまで静かにしていた男に話しかけた。

「あなたはイーストガーデンが自分の物だと言っていたけど、こんな所があるのも知っていたの?」

男が答える。

「当然だ。私が設計したのだからね」

るうは少し驚いた。

「あなたが。どうしてこんな場所を?」

「面白いと思ったからさ。私が隠しておいたギミックを誰かが見つけて驚いたり喜んだりするのを見るのはとても楽しい事だよ。だから、仕掛けのいっぱいある場所にした」

「そう」

「時に、自分が想定し得ない結果になることもあるがね……」

るうがその言葉の意味を聞き返そうとした時、道の向こうからハルシオンと同じくらいの歳の子供がやって来る。
その子は真っ白な髪に真っ白な肌で、何かを数えながら歩いているようだ。
そして行き止まり、つまりるうのすぐ側まで来ると、すぐに壁と壁の隙間に気が付いて中を覗き込んだ。
低学年は小さいな、とるうは思う。

「ああ、見つかっちゃったか」

ハルシオンの幼い声が聞こえた。

「そのうち誰かに見つかるとは思ってたけどさ」

「…………」

白い子が黙っていると、ハルシオンが外に出てきた。

「君、アルビノってやつでしょ。最初から色素を持たない遺伝異常がある」

「……よく知ってるね」

「この前、本に出てきた。それに君、ちょっと有名人。誰ともつるまないし、なんか変わり者」

「…………」

白い子は一年下かもしれない、と思うくらい、ハルシオンとその子では体格差がある。
自然と白い子がハルシオンを見上げる構図になった。

「……俺も君を知ってたよ……」

白い子は怯むことなく淡々と言う。

「ふうん?」

ハルシオンは猫のように目を細めた。

「何年?」

「2年」

「いっしょだ。どこ小?僕、K大附属」

「……真吹山」

「私立か。……名前は?嘘の名前の方」

「……まだ決めてない」

どうやら、るうがやっているような名前隠しのゲームを昔ハルシオンたちもやっていたらしい。
るうの景品は鍵で開けた物の中身ということだが、彼らの景品は鍵そのものだ。

「ふーん。じゃ、僕が決めてやるよ。消しゴムみたいに白いからシロ。……ちょっと安易すぎる?濁らせてシドとか?」

強引な性格は昔からのようだ。
シドは嫌がりも嬉しい顔もせず、ただ頷いた。

「……君の名前は?」

「僕はハルシオン。睡眠薬の名前」

「すいみんやく?」

「嘘。君だけに教えてあげる。これはね、鳥の名前なの」

君だけに。とか、特別に、とか、ハルシオンが良く使う手だった。
ハルシオンが微笑んで秘密を告げるようにそう言えば、大抵の子供は彼の言うことを聞くようになる。
しかし、シドは薄ぼんやりとした表情のままだった。ハルシオンは軽く笑う。

「どうやら君って本当に変わり者みたい」

「……そんな事ないと思う、けど」

「普段何して時間潰してんの?親が店閉じるまで暇だろ」

「ゲームとか、パズルとか」

「ゲーム。どれ?」

シドはランドセルを降ろして中から携帯ゲーム機を出す。その時、ルービックキューブが転がり落ちた。
ハルシオンはそれを拾う。

「ルービックキューブ、前にやったな」

あっという間に目の前で揃えて見せたが、シドはあんまり驚かなかった。
ハルシオンは意外そうにシドにキューブを返す。
するとシドはパーカーのポケットからルービックキューブをもうひとつ取り出した。

「……最近これが出来るようになった」

シドはハルシオンから受け取ったキューブの色をばらばらにすると、お手玉の要領で二つのキューブを両手で飛ばした。
受け取る両の片手で少しずつキューブの面をずらし、1分も経たないで二つのキューブを揃える。
ハルシオンはそれを見て、しばらく黙った。

「かして」

シドの手からキューブをむしり取ると、彼の真似をして回しながら揃えてみた。
10分くらい掛かったが、出来た。
それを見たシドは、すごいね、と素直な称賛を送る。

「次はこれ……」

シドはさらにもうひとつルービックキューブを取り出し、ハルシオンの持っていたのと合わせ、今度は三つのキューブを投げながら揃えた。
ハルシオンはそれも真似しようと思ったが、揃え切る前に取りこぼしてしまう。

「……こういうの、得意だと思ってたんだけど」

「だろうね。俺は二ついっしょに揃えるやつ、一週間かかったから」

それでもハルシオンは少し不貞腐れた顔をしていた。

「何個持ってるの?」

「へ?」

「ルービックキューブ」

「……四つ」

シドはランドセルからもうひとつ取り出した。不器用なのか、今度はがさがさと本も一緒に落ちる。

「なにこれ」

ハルシオンは薄い冊子状のそれを取り上げた。
何の変哲もない計算ドリルだった。
ただし、高校2年生と書かれている。

「兄弟の?」

シドはふるふると首を振った。
ハルシオンが中を見ると、途中のページまで拙い鉛筆文字で計算式が書かれている。

「全部君がやったの?」

「わかんないとこは調べたりしたよ」

「…………」

ハルシオンが何とも言えない表情をしたので、シドは首を傾げた。

「僕、そろそろ帰らなきゃ」

「また会える?」

「…………そうだな。明日の朝10時、ティーポットの店の前で」

ハルシオンはそう答えて走り去って行った。
るうはシドに何もなかった事にほっとした。





その日、イーストガーデンはほとんどの店がお休みだったらしい。
メイン広場にも人がおらず、寂しい場所に小さなシドがぽつんと立っていた。
時刻はもうとっくに約束の時間を回っている。
シドはたまにトイレに行ったり、影のある場所に移動したり、地面にドリルを広げているほかはずっとそこにいた。
日が傾き始めた頃、やっとハルシオンは来た。
シドはハルシオンの姿を見て、少し柔らかい表情をした。

「……君ってばかなのか」

「時間、間違えてた?」

「そうじゃない。君が正しいよ。僕が来なかったの」

「……来たけどね?」

「来たけど」

ハルシオンは静かな声で言う。

「僕が来なかったら、君はただの待ち惚けだったよ。君は僕に怒っていいんだよ」

「……ハルシオンが来ないことも考えたけど、家にいても俺はドリルかゲームやってるし。それならハルシオンを待ちながらドリルをやっていた方がごうりてき、なんだよ」

シドの小学生らしからぬ淡々とした説明に、ハルシオンは疑うような目でシドを見た。
シドの顔には、怒りや取り繕うような色は全くなく、馬鹿正直に思った事を言っているようだった。

「僕が来なかったらどうしてたの」

「どうもしない」

「君ってやっぱ、そうとう変わり者」

「……白いから?」

「ばかだな」

ハルシオンはシドが解いていたドリルを見た。

「僕もちょっとやってみたけどね、僕は中1で分からなくなった」

「それでも、すごいよ」

「やめてくれないか、上から褒めるの」

「……そうじゃなくて。俺はこれしかできないから。ハルシオンは他の事もできるでしょ。タイプが違う。ハルシオンはおーるらうんだーなんだね」

「…………」

ハルシオンは顔をしかめてシドの頬っぺたをぐにぐにつねった。
照れ隠しなのかもしれない。
そして、ぼそぼそと言う。

「今日、もっと早く来ればよかった……」

「……なんで?」

「君みたいな奴、初めてで面白いから」

「……おもしろ?」

「ちょっとだけ」

「……う、ん」

今日は帰らないといけないから帰る。
そう言って、ハルシオンは前回のようにシドに背を向けたが、

「次は月曜日!同じとこで、学校終わったらまちあわせ」

最後に自分からそう言い残した。
残されたシドは、ハルシオンが見えなくなるまで見送っていた。







次に現れたハルシオンは、少し成長していた。当然シドも背が伸びたようだ。

「だからさ、ここの壁が他のとこより低いじゃん。その上を歩いていけば行けるんじゃないかな」

「……距離が足らない気がするし、壁が薄いから足場として不安」

二人は一つのノートを覗き込んで、熱心に話し合っている。

「やっぱそうか。でも、試してみる価値はある」

この頃のハルシオンは、るうの知るハルシオンと重なる部分が多いようだ。
斜に構えた表情で皮肉を言う訳でも、つまらなそうにするでもなく、常に穏やかで楽しげにしている。
ハルシオンは以前一緒にいた男の子達と遊ばなくなったようだ。代わりに、彼の横には大抵シドがいる。
名前隠しのゲームはまだ続いているようで、彼らは相変わらずあだ名で呼び合っていた。

「行こ」

ハルシオンがシドの手首を掴んで歩き出す。

「あのさ、僕」

シドはハルシオンの明るい色の豊かな髪を見ていた。陽の光が透けて、今日は金色に見えた。

「僕、シドには感謝してるんだ。なんか、変だし恥ずいんだけど、僕はたぶんシドを尊敬しててさ、それで、君の友だちとして釣り合っていたいって思うの」

ハルシオンはそこで立ち止まった。

「分かるかな……」

シドは何か言おうと思って、でも上手く言葉が出てこないようだ。

「こんな風に思ったこと、今までなかったんだ。それが、僕は嬉しい。だから…」

ハルシオンがシドを振り返って、笑った。

「君と会えて、よかった」





シドが眩しそうな顔をしたのを見て、るうは胸がぎゅっとした。
何故かノイに会いたいと思った。
少年たちはそのまま走って行ってしまう。
るうの後ろでは、丸眼鏡の男が陰の中に佇んでいる。
そしてその横には、青い扉があった。

「さあ、お嬢さん。最後の扉だよ」

胸元の鍵を握る。ここをくぐれば、どうなるか分からない。
でも、

「続きを知りたければ、最後の名前を」

るうは、迷いなく名前の最後の一文字を男に告げた。