act.16
懐かしい匂いがした。
どこで嗅いだのかわからないけれど、懐かしくて、きっと、幸福な時に知った匂いだ。
10号室の中は、家具のない空室で、がらんとしていた。
ただ、玄関には靴が一足きちんと揃えて置いてある。人がいるのかもしれないと思ったが、物音はしなかった。
窓にはカーテンもなく、そこから入る光の届かない場所は暗い。
シドはしばらく所在なさげに立ち尽くして室内を眺めていたが、ひとつ、不思議なものを見つけて、靴を脱いで中に入った。
それは、壁に空いた窓だった。
ちょうど11号室で齋藤が邪魔だと嘆いた、部屋の真ん中を通る太い柱。
そこに、11号室にはなかった小さな窓が、絵画のように埋め込まれ、ぽつんと白い壁のアクセントになっていた。
近づいてみると、それはシドの顎くらいの位置にある。
覗き込んで、シドは納得したように呟いた。
「中庭……」
エクリチュール館全体を貫いているであろうその吹き抜けの空間は、底が地面になっていた。
土と色の褪せた草のようなものが見える。
猫の額のような土地だが、中庭には違いない。
天井はガラス張りなので、時間によっては太陽の光も差し込み暖かくなるだろう。
見たところ、10号室以外から中庭を見る事のできる窓は、この建物にはないらしい。
何故、何のためにこんな構造にしたのか。それを作った者に尋ねるのは愚かなのかもしれない。
不意にギシ、と音がして、シドは小型の草食動物のように耳をそばだてた。
柱の向こう側から衣摺れの音がする。
やはり自分以外にもひとがいたらしい。
シドはすぐに逃げられるように後ずさり、音の正体から距離を取っていたが、現れた人物を見て一旦立ち止まった。
「きみ……」
それは、髪の長い女の子だった。
何故か下着のような白いキャミソールのワンピース姿で、足も裸足だ。
大きく見開いた目に、窓からの光が射し込んできらきらと輝いていた。
女の子はしばらく驚いたような表情でシドを見ていたが、やがて静かに微笑んだ。
「さっきまで、少し眠っていたの。そうしたら、夢にハルシオンとシドがでてきた」
シドは全くその子を知らないのに、その子はシドをその名前で呼び、ハルシオンの名前を呼ぶ。そのことが、シドには不思議だ。
どうして彼女は、シドにこんなにも親しげなのだろう。
女の子は、戸惑うシドに近付いて、手を差し伸べた。
「私の名前はるう。私、あなたと友だちになりに来たんだよ」
何もかも訳が分からなかったし、言葉も出なかった。
それでもシドの左目から、ゆっくりと一筋の涙が零れ落ちた。