第1章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

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メイン広場までグランドピアノを運んだ瞑夜とシドは、そこかしこにある作り付けのコンクリートのベンチの一つに腰掛けて休憩していた。ケイトはイーストガーデンの中で一番大きな空き家の扉の鍵を開けている最中だ。

瞑夜が見れば、無口で無気力そうな印象のだったシドは、イーストガーデンの様子を興味深げにしげしげと観察している。
その顔立ちに幼さが残るのを見て、シドが自分やケイトよりずいぶん年下だったことを思い出した。最後に会った時の彼は、まだランドセルを背負った小学生だったはずだ。

「店……、分かってたけどもうやってないんだね……」

少し気落ちしたような声だった。
無理もない。
自分たちの思い出の中のイーストガーデンはいつも綺麗で華やかで、おとぎ話の中の世界のように特別だったのだ。
彼らが子供の頃、この奇妙な迷路のようなコンクリートの庭園では、洒落た小さな店が点々と商いをやっており、イーストガーデンはテーマパークの中のショッピングモールを思わせる、一風変わった施設だった。
その店々もオーナーのお目に適ったものに限り、同じ物を売る店はなかったし、どれも個性的ながらイーストガーデンの雰囲気に馴染む不思議な魅力を持っていた。

今や蔦や雑草、ところどころ割れたコンクリート、錆びた金属プレートや、壊れた電灯。そんなものが廃墟然としていて、イーストガーデンを閉鎖的で物悲しい場所に見せている。
店の曇ったガラスの中に中途半端に残ったガラクタや、雨ざらしで文字が削れたcloseのプレート、塗料の剥げた小さな動物の置物などが昔の面影を残してもいたが、返って時間の経過を感じさせて寂しい。

「僕らの母親たちが経営していた店ですからね。ケイトの話だとあれから誰も店を出していないみたいで、こうなるのも仕方ないでしょう」

「……そっか」

二人はレンガの敷かれた広場にぽつんと置かれているグランドピアノを眺めた。
黒く艶やかで優美なその姿は、何故だかこの物悲しい場所によく似合うように思えた。

「ねえ、瞑夜。君とずっと話したかった……」

シドの表情はパーカーのフードと長い前髪に隠れて見えない。
白い髪。彼は生まれつき肌や髪が白くて、あまり虐めなどがなかったイーストガーデンでも、ちょっと浮いた存在だった。
守ってやらないと壊れてしまいそうな繊細な雰囲気は昔と変わらない。でも、彼は成長して、あの頃の瞑夜くらいの歳になっていた。その事が少し不思議だ。

「なんでも聞きますよ。言ってください」

瞑夜は優しい声で答える。
シドはそれに頷いて、こう続けた。

「本当はあの後すぐ、話を聞きたかったんだ。でもなかなか連絡取れなくて、気がついたら君はもう日本にいなかった」

「……ごめんなさい。僕もあの頃非常に混乱していたんですよ」

「うん……。瞑夜、君の……」

「王子!シド!扉開いたからこっち運んでくれ!!」

しかし、シドの言葉は途中で向こうからやって来たケイトの声に掻き消されてしまった。

「ちょっと埃っぽいけどマシな方だから。さっそく運ぼうぜ!」

二人の空気とは裏腹に、ケイトの声は弾んでいた。先に立ち上がったのは瞑夜だ。

「シド、その話は後で。まずはこっちを終わらせましょう」

小さく低い声で囁かれた言葉に、シドも頷いて立ち上がった。






三人はピアノを押して広場からアーチをひとつくぐり、さらに奥に入っていった。
アーチの奥は三方を閉ざされた空間で、アーチの反対にある高いコンクリート壁の側に、剪定もしていないのに丸いシルエットの大きな木が一本立っている。
その左手は二階建ての建物になっており、一面がガラス張りになっているので、曇ってはいるものの中の様子を見ることができた。建物の一階半分のガラス扉は蛇腹に折りたたむことができるので、ピアノも楽々入る。

「よくこんなの一人で開けましたね」

ガラスと金属でできた扉は、いかにも重そうだ。感心したように言う瞑夜に、ケイトは欠伸混じりに答えた。

「蹴ったらなんとかなった」

「……重かったらなら素直に呼んでください」

随分くたくたになってしまった段ボールで道を作りながら、三人でゆっくりと店の中にピアノを入れる。
ある程度奥まで入れると、このくらいでしょうか、と瞑夜が言い、三人は息をついた。

屋内もコンクリートの打ちっ放しが基本で、使い勝手はともかく中途半端に古い建物にしては近代的な見た目だ。
他の建物程ではないが、屋内にはちらほら物が残っている。
瞑夜はピアノの椅子を運ぶためにもと来た道を戻り、ケイトと朝は階段を上って二階を覗いてみることにした。

「給湯室、トイレ、物置き……?」

「ここは何かの設計事務所だったって聞いたことがある。お、ソファが残ってるぜ」

ガラス窓近くは日差しが強いが、部屋の奥は昼間だというのに随分と暗い。
壁にふたつの丸いボタンを見つけたシドが押してみたが、何も起こらなかった。

「電気のボタンは階段の横にあるやつだな。といっても、電気通ってないけどね。それはカーテンのボタンだと思うよ」

よく見れば、窓の隅に緞帳のようなカーテンが隠れている。

「白い布だからプロジェクターを使えば映画とか見れそうだね」

楽しげに話すケイトに、階段で上がってきた瞑夜が何のご相談ですか?と微笑む。

「いや、ここけっこう使えそうだからさ、皆の溜まり場みたいに出来そうだなって思ったんだよ」

「おや、それはいいですね」

「随分早かったな」

「椅子は小さいので、外を回らずに近道してきました。相変わらず途中で迷いそうでしたが」

「ほんと、よくこんなとこ作ったよな」

二人が話している間、シドは屋内の影になっている部分の端、ぎりぎりに立って窓の外を見ていた。
そこからは、ピアノを入れる為に通った汚れたレンガの広場と、あの大きな丸い形の木を見ることができる。

「……この場所、よく覚えてる」

ぼそりと呟かれたシドの言葉に、瞑夜とケイトも窓から外を見下ろす。

「"お話ひろば"でしたっけ」

瞑夜の柔らかい声が、懐かしい響きを奏でた。


昔、迷路のようなイーストガーデンを、店員や客の子どもたちが子犬のように走り回っていた。
時々この行き止まりにある丸い木の前には、とっても楽しいおじさんが来て、皆にお菓子をくばったり、紙芝居を見せてくれたり、異国の話をしてくれたりする。
泣き虫な子も、小さい子も、やんちゃな子も、夢見がちな子も、色々な子がいたが、どんな子もそのおじさんの話は真剣に聞いてしまう。
おじさんがお話をしてくれる広場。だから"お話ひろば"と子ども達は呼んでいた。

「今思うとそのままだな」

「…………変な遊びをしたよね」

「変な遊び?」

「ケイトの名前も俺のシドって名前も、その時についたあだ名だ。瞑夜は…イバラだったっけ?なんで瞑夜だけ本名に戻ったのか、不思議だけど」

シドの胸元にも、瞑夜のコートの中にも、ケイトの腰にも、違う細工の施された真鍮の鍵が揺れている。
シドの言葉で、二人は思い出した。
昔、あの広場であの男は沢山の子どもたちを前にこう言ったのだ。

『さあ、新しいゲームをしよう。名前を隠すゲームだよ。新しい名前を作って、本当の名前は内緒にするんだ。名前は、自分で考えても、人につけてもらっても構わないよ。』

その不思議な提案に、子どもたちはざわめいた。秘密やごっこ遊びは彼らの大好物だ。

『名前、知られちゃったらどうするの?僕は兄さんがいるし』

仲間の一人が質問をする。
男は、楽しげに頷く。

『いい質問だ。ここにいる間、兄弟や友だちの名前も忘れてしまおう。うっかり喋ってしまってはいけないよ』


何故なら、名前を知られた仲間は、この世界では死んでしまうのだから


その言葉に、気弱な子どもは怯えた顔をして、そうでない子も体を強張らせた。
男は安心させるように言葉を重ねる。

『大丈夫。本当に死んだりはしないよ。ゲームだって言っただろう。最後まで生き残った人には景品をあげようね。それはそれは素敵な景品だよ』

今度は、まだ見ない景品について思いを巡らせ、子どもたちはうっとりとする。
なんせ、男の持ってくる物はいつも子供の心を掴むような、他のどこでも手に入れられないような物ばっかりだったからだ。

『さあ、名前を決めよう。今日から君たちは新しい名前でイーストガーデンの住人になるんだ。本当の名前を知られてしまった人は物語から脱落だよ。でも安心してほしい。負けた人にも残念賞のお菓子をあげるからね』


不意に、芝居掛かった男の声が本当に響いたような錯覚を覚え、ケイトは身震いした。
楽しく遊んだ思い出のはずなのに、どうしてだろう。振り向けば、シドも瞑夜も、浮かない顔をしている。

「俺たちみんなあのゲームに残ったな」

男から手渡された大きな冷たい鍵は、誰一人として同じ鍵ではなかった。ひとつひとつ特別で、そしておもちゃにはない重みがあった。
当たり前だ。それは本当に、イーストガーデンの住人になる為の鍵だったのだから。