プロローグ
四方をコンクリートの壁に囲まれた殺風景な空き地に、不釣り合いに小綺麗なガーデンテーブルが置かれている。
テーブルの真ん中にチェス盤。
その周りには紅茶、クッキー、チョコレート、飴玉、カラフルなブロック、ビー玉、ミニカー、そんな物が散らかるように置かれている。
四角形に切りとられた息苦しい空から、白い月が顔を出してそれらを青白く照らしていた。
テーブルを挟んで、一人の少年と少女が対峙している。
少年は仕立ての良いセーラー服を着ており、まだ椅子に座ると足が地面につかない程に背が低い。10歳くらいだろうか。けれども余裕のある表情で盤面を眺める瞳からは、子供らしからぬ知性が伺えた。
片や、少女の方はもう少し歳上だ。白い清潔そうなワンピースを着て、幼い少年の相手をしている。
二人の足元には、菫の花が咲き乱れていた。
「ひとつ、面白いゲームを提案したいのだけれど」
少女が、唐突に囁く様な声で言った。
「チェスより面白いゲームがあるなら乗るよ」
幼い少年が答える。
少女は微かに笑った。
「あなたの願いを賭けたゲーム」
「何、それ」
幼い少年は警戒の色を瞳に隠し、しかし僅かに眉をひそめた。
「あなた、元の場所に戻りたいと思わない?」
誘うような言葉に、幼い少年は首を振る。
「できっこない……」
「それがそうでもないってこと」
その言葉に、今度はあからさまに口を引き結ぶ。
簡単には騙されない、という意思を込め、幼い少年は大人びた声で静かに問う。
「何が狙い?」
「鍵」
少女は簡潔に言って、幼い少年の胸元を指差した。
そこには真鍮でできた繊細な細工の大きなアンティークの鍵が、鎖のネックレスにぶら下げられている。
「あなたの持っているその鍵が、わたしは欲しい」
「僕の願いなんて、知らないくせに」
「……そうね」
もちろん断ってくれてもいいわ。少女はやけにあっさり言って、黒のポーンを弄ぶ。
それを見ながらしばらく黙っていた幼い少年は、不愉快そうに頬杖をついて言った。
「……退屈だからやらないこともない」
「そう?」
少女は我が意を得たりとばかりに、薄っすらと紅い唇で微笑んだ。
それを見て、幼い少年は更に顔をしかめる。
「それでは、それぞれの居場所を賭けたゲームしましょう。でも、あなたの相手はわたしではないの」
「え?」
幼い少年が小さく疑問の声を上げたと同時に、彼の髪や服はまるで突風に巻き込まれたように風に煽られ、周りも見えなくなった。
突風はじきに収まり、少年は目を開くとすぐに異変に気付いた。
視点が、先程と比べて明らかに高い。
「鏡、見る?」
少女が、何処から取り出したのか手鏡を差し出す。
今では、二人は同じくらいの歳に見えた。
伸びた手足や、丸みの減った頬を確かめるように触れる。
「あなたが喪った時間を、世界を、言葉を、想いを、人を、取り戻していらっしゃい。ハルシオン」
少女は、鏡に見入る少年を少しだけ慈しむような瞳で、そう呟いた。
月が、菫の花を穏やかに照らしていた。
薄曇りの空、時々吹く風がとても冷たい。
そこはお世辞にも栄えてるとは言い難いが、田舎と言うには人も施設も揃っている。そんな町だ。
そんな中、傘を差して歩く少年がいる。それも、雨の日に差すような紳士用の黒くて大きなコウモリ傘だ。
少年は白いジャケットにジーンズを履いて、白いショルダーバッグを肩に掛けている。
近づいてみれば、服装だけでなく、彼の顔や指や髪も真っ白なのが分かるだろう。
けれども少年は用心深くジャケットのフードをかぶり、傘の柄にしがみつくようにして歩いているため、そんなところまで気がつく人は滅多にいないようだ。
道行く人の好奇の視線を傘に受けながら、少年は下を向いて、一定の速度で歩いていく。
少年の首には、太めの鎖が掛かっていた。
鎖は少年の胸元まで伸びており、先に大きな鍵の形をしたチャームがついている。
ほどほどに使い込まれた真鍮の鍵で、大きさは彼が握ってなお余るくらいだろう。
持ち手部分には繊細な細工で雪の結晶の形を模したした金属がはめ込まれ、その真ん中に数字の3が記されている。
それが、少年が歩くたびにリズミカルに揺れる。
少年の唇は声を出さずに、数を数えていた。
11257、11258、11259、…
11281、まで数えたところで、少年は顔を上げ、辺りを見渡した。
そして数歩先にある奇妙な建物の入り口に刻まれた文字を見て足を止める。
「イーストガーデン」
少年は胸元の鍵を握りしめ、白い息を吐きながら小さな声でそう呟いた。