第1章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

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彼女が再びあの不思議な店の集まる場所に来たのは、また会おうという少年との約束があったのもあるが、純粋にあの場所が気になったというのもある。
そして何より、少年のあるいたずらのせいでもあった。

前と同じように、学校の帰りに制服のまま、彼女はイーストガーデンに足を踏み入れた。
彼女は制服というものを気に入っている。
同じ服を着せられた子供たちは、自分たちの個性に合わせて着方を変える。
彼女は折り目やひだを損なわず、なるべく皺をつけないように、けれども野暮ったくなりすぎないように少し着崩して制服を着ていた。
彼女がわざわざ受験をしてあの中学校を選んだのは、制服が気に入ったというのも大きかった。


前のように柱の道を通り、開けた場所に出る。
店は以前よりも華やかに飾られているようだった。内装も、扉やウェルカムボードにも、赤や緑の装飾があり、彼女はある事に気づく。

「もうすぐクリスマスか」

どうりで最近の学校の空気がいつもより騒々しいわけだ。
恋人と約束したり、友達でプレゼント交換をする準備をしている子もいるのだろう。
彼女の顔ほどもあるサンタのクッキーに見惚れていると、いつの間にかショーウィンドウの映り込みに自分ともう一人映っているのに気がついた。相変わらず、気配がない。

「これ。ポケットに入れたの、あなたでしょ」

振り返り、大きなアンティークの鍵をつまんで見せると、その人物はにやっと笑った。
翼の形のチャームに10と数字が描かれている、彼がわざと落としたというあの鍵だ。
妙に生真面目なところのある彼女は、少年の意図に気付きながらまんまとまた彼に会いに来てしまったのだ。

「当たり。君、全然気づかないんだもの」

「最近の子どもはこういう手をつかうの」

「君だって子どもじゃないか」

「返す」

「ふふ。せっかくだからゲームをしないか」

少年、ハルシオンは魅惑的に笑ってさっさと歩き出してしまう。
ブランドの名前などはわからないが、今日は上等そうな仕立ての尖った襟のシャツにカーディガンを着ていた。細身のチェックのズボンは裾をブーツに入れている。初めて会った日よりは大人っぽく見えた。

ハルシオンはひとつアーチをくぐって、小ぶりだが美しいオーナメントで飾られたクリスマスツリーの前に来た。
彼は少し強引でマイペースな性格のようだ。
いちいち従う義理はなかったが、取り立てて嫌な気分にもならなかったので、黙ってついていく。
彼はクリスマスツリーを支える大きなレンガ色の植木鉢に寄り掛かった。
まるで体重がないかのような動作に見える。

「イーストガーデン。迷路みたいだろ?僕はここに来て長いけど、未だに混乱する事がある。入ると絶対迷子になる道っていうのもあるよ」

「ここはどういう場所なの?」

「ある男が自分の理想を閉じ込めた場所なんだって。建築から口を出し、自分のお眼鏡に合った店を入れ、好みの住人だけを住まわせる。君の持っている鍵は、このイーストガーデンのどこかを開ける鍵だよ。どこの鍵か分かったら、君の勝ちだ」

「犯罪になったりしないの?」

「大丈夫。それは正真正銘僕の鍵さ」

にこりと笑うハルシオンの髪に、オーナメントの光が反射して綺麗だ。
彼女は目を細めた。

「ゲームならば、私が負ける場合もあるんでしょう」

「…そう言えばそうだね。じゃあ、これはどうかな。僕が君の名前を知ったら僕の勝ちだ。君はここにいる間、本当の名前を隠さなければならない」

彼女は即答をせず、疑うようにハルシオンを見る。

「もちろん学校に行って誰かに聞いたり、調べたりはしない。君がうっかり自分の名前を言ったり、名前の付いた持ち物を落とさないかぎり、僕には名前が分からない」

「それって私の方が有利じゃない?」

「それはまだ君がイーストガーデンを回っていないからそう言えるんだ。それに、僕が意地悪く誘導尋問したりするかもしれない。鍵穴を見つけるのが先か、名前が分かるのが先か、見ものだね」

あんまり自信がありそうなので、彼女は呆れたように頷いた。

「だけど、名前が呼べないのは不便だな。あだ名や愛称みたいなのはないの」

ハルシオンの呟くような声に、もしかしたらもうゲームは始まっているのかもしれない。そう思いながら、しぶしぶ彼女は答える。

「じゃあ……るう……」

「るう、ね」

誰にでも教えるわけではなかったし、少し恥ずかしかったが、それは大事な名前だった。
ハルシオンは確かめるようにその名前を呟くと、にっと笑って誘うような顔をする。

「それじゃるう。ここは寒くない?お茶飲みに行こ」







ハルシオンは一度イーストガーデンのメイン広場に戻ると、沢山ある柱と柱の間をすっと入って壁の間の細い隙間を進んでいった。
彼は迷いなく歩いていくが、るう一人では間違いなく辿り着けないだろう。
分かれ道をどう進んだのか、行き止まりには大きなポットがくっついたような入り口の、可愛らしい外装の店に着いた。
扉を開けると軽やかな鈴の音がなる。
そう多くの客が入れるような場所ではなかったが、暖かくて綺麗な音楽が流れている。
今は、彼ら二人以外に客はいないようだ。

「はいメニュー」

ハルシオンから渡された小振りな冊子には、専門店なのか紅茶の名前がずらりと並んでいた。後ろの方には中国茶などの名前もある。
各項目には丁寧に説明があったが、急に暖かい場所に来たせいか、るうの頭は少しぼんやりしていた。

「……じゃ、アールグレイ」

るうが呟くと、オッケーと言ってハルシオンはどこかへ消えてしまった。
残されたるうはゆるりと店の内観を眺めていたが、彼がどこへ消えたのか、このままここに座っていて良いのか思案しながら取り留めもなくメニューをめくることにした。

しばらくすると彼はお盆にポットとカップ、砂時計を載せてやってきた。
ハルシオンはそれらをるうの前にセットすると、妙にかしこまった調子で、

「お待たせしました。アールグレイになります。砂時計が落ち切ってからカップに注ぎください」

とにこやかに説明した。
しかしるうが黙り続けているのを見て、お盆を隣の席に置くと、なんかリアクションないわけ?とつま先でるうの椅子を突いた。

「あ、ごめんなさい。少し混乱してた」

「混乱すると動かなくなる奴、君で三人目だ」

「ハルシオン、店員だったの?」

「違うよ。ここ、僕の母親がやってるの。今いないけど」

ああ、とるうは納得する。
ハルシオンは、砂時計が落ちたらね、と再度言って、自分の分のティーカップとクッキーの入った小さなバスケットを持って来た。
クッキーは砂糖のまぶされた素朴な物で、るうは久しぶりにそんなクッキーを食べた。
紅茶とクッキーは僕のサービス、とハルシオンは片目をつぶった。

「ハルシオンのお茶、すごく甘い匂いがする」

「飲んでみる?」

差し出されたティーカップを素直に受け取ると、香りは更に強くなる。口をつけて、るうは少し眉をしかめた。

「これは甘すぎる」

「そう?砂糖7杯くらいだけど」

「7杯…」

「甘いのは僕の好みだけど。香りが強いのは元々だよ。これはロータスティ。つまり、蓮の紅茶だ」

「蓮ってそんな香りなのね」

るうは口直しに自分の紅茶を飲む。
こうして丁寧に淹れられた紅茶を誰かと飲んでいることを、懐かしいと感じた。

「今……」

クッキーを齧っていると、ハルシオンが自分の飲んでいるティーカップの中を覗くような格好で口を開いた。

「何を考えているの?」

ハルシオンの睫毛は綺麗な金色で扇状に広がっている。瞼はピンク色だ。
ティーカップを支える指の繊細さ。爪は桜貝のように儚く、指よりも少しだけ長く切り揃えられている。
こんな作り物じみた容姿を持つ者を見たのは、るうは初めてじゃなかった。

「……大事な……ひとのことを」

「大事な人?」

「そう」

るうは話したいような、話したくないような気持ちでクッキーを齧る。
白いクッキーは淡く粉々になり、茶色のクッキーは硬く砕くと小気味の良い音を立てる。
ハルシオンは大人しく耳を傾けるように、甘い紅茶を飲んでいる。

「あのひとは優しくて、いつも静かに微笑んでいるひとだった」

「まるで今はいないような言い方だね」

「……そうね。あの時私は、もしかしたら気が狂っていたのかもしれない」

ほとんど初対面の人間にする話ではない。
けれど、では誰に?と問われた答えが彼女には見つからなかった。
ハルシオンは悪い奴には見えなかったが、聡くて底知れない部分があり、素直になるのが少し怖い。
それでも普段口の固い彼女が話してしまったのは、彼に少し現実感がないからだろうか。

「私は昔から、たまに違う世界に行ってしまう。……こんなの、信じなくて、いい」

呻くような彼女の声に、ハルシオンは首を傾げる。

「疑ってほしいのかい?」

「……違う。あなたに否定されるのが怖いだけ」

「否定しないよ。大切な人の名前はなんていうの?」

「……ノイ」

「ノイはきみの友達なの?」

るうはノイの名前が、他の誰かの口から発音された事が嬉しかった。それは彼女が気付かないくらい少しだけ、彼女自身がノイの存在を疑い始めていたせいかもしれなかった。でも今、少なくともるうとハルシオンの間には、ノイは絶対的に存在するのだ。

「……いいえ。私の姉さん、なんだと思う。家族は、私に姉さんはいないっていうけど。私にとっては一番大好きで、彼女がいるなら他に誰もいらないっていうくらい私にとっては大切なひとなのよ」

それを聞いたハルシオンがクスリと笑った。

「なんだか、僕も友だちを思い出しちゃった」

「あなたの友だち?」

「そう。僕の友だちはちょっと表情筋が錆び付いてるけど不器用で素直だ。でも妙なところで頑固」

るうは自分がノイを想うように、ハルシオンもその友だちを大切なのだろうと思った。彼の表情はそれくらい優しい。

「で、そのノイは違う世界にいるのか?」

「ん。自分の意志で自由に行ったりきたりできるわけじゃないから。あと……」

「あと?」

「あの頃は私がすごく辛いときだったの。人は、その、辛いときに心を壊さないように妄想の世界に逃げる事があるって……本で読んだから」

最後の方は普段の彼女からしたら、考えられないくらい弱々しい声だった。
ノイに守られていた頃の、泣いてばかりの彼女に戻ってしまったようだった。
口にしたらそれが本当になってしまうかもしれないと、何度も否定した考えだった。でも、押し潰した考えは何度否定しても頭をもたげ、今度は彼女が押し潰されそうになる。
そんな彼女に、ハルシオンは大人びた口調で言った。

「そういう話があるとは僕も聞いた事があるけど、だったらそれはそれでいいんじゃないかな」

「え?」

「僕は僕の友だちが妄想の産物でも、僕に姿が見えて話ができるなら別にそれでいいよ。外からどう見えても関係ない」

それは、不思議と否定した考えの裏側で彼女が思っていた事でもある。妄想でも構わない。ノイと、また逢いたかった。
ノイは強張った頬を少し緩めた。

「ハルシオン、話を聞いてくれて、それから私の話を馬鹿にしないでくれてありがとう」

「どういたしまして」

「あの……またたまに、ノイの話をしてもいい?」

「もちろん。僕は大抵イーストガーデンにいるから」

一体、同じくらいの歳に見えるが、ハルシオンはいつも何をしているのだろう。
そんな疑問を持ちながら、そろそろ帰らないと、と準備を始めた彼女に、ハルシオンはティーカップを片手で持ちながら、思い出したように喋りだした。

「さっきの話だけど、僕はあながち妄想とも限らないと思ってるよ」

「ノイが私の妄想かもしれないって話?」

「うん。君はさ、やっぱり少し次元がずれた場所に紛れやすい体質なんじゃないかな。コントロールしきれてないけど」

「……どうしてそう思うの?」

彼女が振り向くと、ハルシオンはティーカップを置いて、唇を釣り上げるようにして笑った。
紅茶の湯気が白く彼女の視界を曇らせる。
ここは温かくてとても良い気持ちだ。それにとても良い匂いがする。

「不思議の国のアリスって知ってる?」

その言葉を聞いた途端、るうは気が遠くなるのを感じた。
彼の声がこだましながら段々遠くなり、白さに侵食されてゆく世界の中で彼女は、遠く懐かしい少女の姿を見つけたような気がした。