act.08
白いワンピースを着たるうが店の外へ出ると、季節は冬にも関わらず、ノースリーブ姿で寒さを少しも感じないのだった。
採寸が測ったようにぴったりだったこと、そもそもこのワンピースがイーストガーデンにあること、何かにつけて奇妙で、いよいよおかしな場所に来てしまったのだと、るうは思い知る。
コンクリートの壁は一層高く、騙し絵のように何層も積み上げた回路があちこちに見える。一目見ただけではどこへ行ったら良いのかも分からず、また、行きたい場所を見つけたとして素直に辿り着ける気もしないのだった。
心細くなる気持ちを誤魔化すように歩き始め、辺りを見回す。
相変わらず人っ子ひとりいないはずなのに、不思議だ。今度はそこら中から人の気配、もっと言えば子供が何人もいるような物音が聞こえてくる。
それは笑い声だったり、靴音だったり、聴こえるだけで見ることはない。
「なによ、これ」
苛ついたるうが石を投げつけるようにつぶやいても、子供たちはそれを面白がるようにくすくすと忍笑いをする。
るうは早足で向かいの角を曲がったり、声のした方角を見たりしてみたが、どこにも誰もいなかった。
「卑怯だわ、こんなの」
しかし、しばらくして不意に振り向いた先の一本道に、見覚えのあるセーラー服の少年が立っていた。
「ハルシオン…?」
そうは呟いたものの、少年は彼女の知るハルシオンよりも幼い姿をしている。
手に飛行機の模型を持って、小さなハルシオンはどこか嘲るような目でるうを見ていた。
「どうしてそんな…」
困惑気味に歩み寄る彼女がたどり着く前に、少年は身を翻し道の向こう側へと走って行った。
反射的に彼を追いかけながら、るうは初めてイーストガーデンに来た日のことを思い出していた。
小さいのに、変わらずハルシオンは足が速い。
やがて息を切らしながらたどり着いたのは道の行き止まりで、他のどこにも分かれ道などなく、少年の姿は当たり前のようにない。
行き止まりのコンクリートの壁には、貼り付けたように青い木の扉が付いていた。
扉の前には少年が持っていた飛行機が落ちていて、るうが拾うとまたどこからともなく子供たちの耳障りな笑い声が響いた。
「ああもう、いい加減にして」
るうはドアノブを回してみたが、ドアは開かなかった。ついている鍵穴も小さすぎてるうの持つ鍵では開かないようだ。
肩を落として鍵をはなすとまた笑い声が大きくなり、るうは耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「私のイーストガーデンに、最近外の人間が入り込んでいるようだったが、お嬢さん。君がその一人かな」
その男の声は、耳を塞いだるうの耳にしっかりと響いた。
「だ、だれっ?」
弾かれたように立ち上がれば、そこには丸眼鏡を掛けた、恰幅の良い中年の男が立っていた。ワインレッドを差し色に洒落た紺野スーツを着込み、ステッキを持って紳士を気取っている様子である。
るうは素性の分からぬ男に、警戒で身を硬くする。
「アリスは向こう見ずで好奇心旺盛、と相場が決まっているものだが、お嬢さんは少し怖がりだね」
男の含み笑いと『怖がり』という言葉に、るうは不愉快になる。
「知らない人間に分かったような口聞かれたくないわ」
「そりゃあそうだ。君が正しい」
すると男はあっさり頷き、続けてるうの胸元にぶら下がった鍵を示し、こう言った。
「ところが見知らぬアリス。君は私の鍵を持っている。そうも無関係、という訳じゃないみたいだね」
「……どういうこと?」
「いいね、そいつはずいぶんアリスらしい。どうして?なんで?無知なアリスはいつだって聞いてばかりだ」
るうは黙って男を睨んだ。
この男にこれ以上構っているのはごめんだった。
男の横をすり抜けて、元の道を帰ろうとする。が、身体が動かない。
「鍵を持ってるうちは君は私の可愛い登場人物だ。勝手は出来ないよ」
男は懐からパイプを取り出し、芝居掛かった動作で火を点ける。
「お嬢さん。この世で最も至高な物とは、何だと思う?お金が、愛か、はたまた知識か。人の数だけ答えがあるだろうがね、私ならこう答える。そう、『物語』とね。何故なら物語は、富も、愛も、知識も名声も力も、全て含むのだから」
噛みつきそうな目で睨むるうに微笑みながら、男は語る。
「私は物語に取り憑かれた者。物語の種を蒔く者。だから今、私はとても嬉しい。ひとつの物語が今まさに熟そうとしている事をとても喜んでいる。彼の紡いだ短い物語が、君や、彼のお兄さんや、そして幼い親友に影響し、さらなる成長を迎えている事を、祝福しているんだ」
意味を理解した訳ではなかったが、るうはその言葉にざらついた手に触られたような不快感を感じた。
「……もしそれがハルシオンの事を言っているなら、ハルシオンはあなたの物じゃないし、私だってそうだわ」
「そうだね」
男は鷹揚に頷く。
「正しくは、みんなのもの。みんなの物語だ」
るうは男の目に微かな狂気を見て、首筋に鳥肌を立てた。
「……どうやったってあなたとは分かり合えそうにない」
「私の主義主張はかつて一人にしか理解されたのみだ。マイノリティとは辛いものだね」
全く気にしてなさそうな顔で、男はゆっくりとるうに近づいた。
るうはそれに怯えたが、気がつけば身体が自由になっていた。
「さあお嬢さん。私の庭で迷子になっているお嬢さん。私は君の為にここを開けてあげよう。少年を追えば、君は元の場所に戻れるだろう。彼を追わなくても帰れるが、少し時間がかかるかもしれない。ただし、ここの鍵を開けるためには、お嬢さんの名前を一文字教えてもらうよ」
「どうしてそんな事を」
「愚問だね。物語を面白くする為だよ」
「……、る」
男は窘めるようにかぶりを振る。
「そっちじゃない。お嬢さんの身体を現実に縛りつけている名前の方だ」
「…………」
るうは充分迷った後、本名の最初の一文字を告げた。
男が我が意得たりとばかりに扉の鍵穴に銀色の細い鍵を差し込み、うやうやしく扉を開けてるうを招いた。
るうは憮然とした顔で扉をくぐる。
そこは、やはりイーストガーデンだった。
ただし、小学生くらいの子供が十数人、走り回ったりゲームをしたりして遊んでいる。
その中に一際明るい色の髪をした、少年のハルシオンがいる。
ハルシオンはつまらなそうな顔でベンチに座って、子供が読むには小難しそうな本をめくっている。その周りでは、幼いながらに背伸びをした印象の、いかにも運動の得意そうな少年達がそれぞれ別の事をしている。
ハルシオンも、少年達も、突然現れたるうと男が見えないかのような態度だ。
るうは舞台でも見ているかのように、男と一緒に黙って立っていた。
「なあ、翼」
ハルシオンの隣でゲーム機を弄っていた肌の日焼けした少年が言う。
「ん?」
翼と呼ばれたハルシオンが、彼を見もしないで返事をした。
「そろそろだろ、時間」
その言葉に、周りの少年達が二人に注目する。
「……ああ」
ハルシオンはかすれた声でそう言って、立ち上がった。ポケットに手を突っ込んで歩いて行ってしまうのに、他の少年は何やら盛り上がりながら別方向へ向かっていく。
るうは迷いながら、ハルシオンを追った。
ハルシオンが行った先には、彼と同じくらいの歳の女の子が立っていた。
少女は、前後関係を知らないるうにも事情が分かるほど明らさまに、頬を染めて、もじもじとハルシオンを直視できずにいる。
ああ、やっぱりモテるんだな、と思う。
女の子はなかなか可愛い顔をしている。ハルシオンに見てもらうため、お洒落もしてきたのだろう。少しお姉さんぽいタイトスカートが、彼女に似合っていた。
「あの……来てくれてありがとう……」
女の子の声は震えていた。
「別に」
ハルシオンの顔はるうの位置からは分からないが、欠伸でもしそうな声だ。
「……あの」
「はい」
「……手紙でも書いたけど、私……」
「僕のことが好きだってやつ?」
女の子は真っ赤になって、ハルシオンの顔を伺うように前を向いた。
「……話のネタにはなったけどさあ」
ハルシオンは言いながら上を向いて、何故か数歩後ずさった。
るうはハルシオンの視線を辿り、あっと声を上げそうになる。
「小2でお付き合いって、何すんだよってハナシ」
ハルシオンの馬鹿にしたような言葉が彼女の耳に聞こえたかどうか、るうにはわからなかった。
彼女は頭上から降ってきた水に塗れ、何があったのか分からない、という表情でハルシオンを見ている。
ぎゃはは、と笑い声がして、彼女に水をかけた男子たちは顔を引っ込めた。
池の水でも使ったのか、彼女の髪には藻や浮き草のような物が引っかかってる。
「ドラマの見過ぎじゃない。くだらない」
ハルシオンはそれだけ言って、くるりと女の子に背を向け、るうの横をすり抜けるように去って行った。
女の子はしばらくして崩れるようにしゃがみ込むと、自分を抱きしめ、声を押し殺して泣いた。
るうは、それを見ているだけで自分の体温も下がっていくようだった。
「ハルシオンは、あんな事しない……」
「あんな事をするハルシオンくんは、君の友だちじゃあないのかな」
男の言葉に返事をする前に、るうはまた幼いハルシオンの姿を見つける。
先ほどと違う服なので、日にちが経ったのかもしれない。
彼の周りには見覚えのある少年達が群れていた。
「あれやろ。久しぶりに、親友ゲーム」
「えー、あれ、僕が疲れんだけど」
「いいじゃん。次はね、親の金盗んでくるまで何日かかるか」
ハルシオンは怠そうな顔をしていたが、思いついたように唇を片方釣り上げて笑う。
「そんなんつまんないしリスクだらけじゃん。もっと面白いのあるよ」
え、なになに、と少年達が騒ぎ立てる。
るうはそれを不安げに見ていた。
「これ、僕の下僕」
ハルシオンの横には、木偶の坊、という言葉が相応しい、身体は大きいが知性の感じられない汚いトレーナーを着た男が立っている。
少年たちは、オトナである男をやや引き気味で見ていたが、ハルシオンが男の脇腹を肘で殴っても呻くばかりなのを見て、新しい玩具を見つけたように近づいた。
「すげえ、こいつ全然抵抗しない」
「してたらお前なんかひとたまりもないよ、ばか」
少年の一人の言葉に、ハルシオンが鼻で笑うように言う。
「で?こいつで何すんの?」
「ふ。たまには自分の頭使えよ。……なんてね。渉、言ってただろ、親友ゲームしたいって」
「え?ああ」
ハルシオンはうずくまって荒い呼吸をしていた男を振り返ると、嘘くさい可愛らしい声を作って話しかけた。
「おじさん、僕、おじさんと渉が遊んでるとこ見たいな」
おじさん、と呼ばれた男が、それを聞いてゆらりと熊のように立ち上がる。
渉はそれに怯えた顔をして、次にハルシオンに懇願するかのような目を向けた。
ハルシオンは笑ってそれを流し、観客席とばかりに石のベンチに腰掛ける。
他の少年は、恐れと興奮が入り混じった目でそれを見守っている。
彼らにとって、ハルシオンと友達であることは、必ずしも安全な席とは限らないようだ。
「翼、翼、俺、お願いだから…」
「僕たち親友だろ、渉」
幼いハルシオンの様子には、友達を裏切る罪悪感は愚か、高揚感すらも見つける事ができなかった。るうとシャボン玉を飛ばしていた時の方が、よっぽど感情豊かに見えた。本当にこれがるうの知るハルシオンなのかと、信じられなく思う。
少年の悲鳴の混じった懇願を聞きながら、それから先をるうは見る事ができなかった。
「こんなハルシオン君は、君の友だちじゃないのかな」
「こんな……こんな……」
るうはいつの間にかかたかたと震えていた。
「君は今思っている。君といたハルシオン君は、ただ親友ゲームをしていただけなんじゃないかと。君は友だちを疑い始めている」
男の言葉に唇の色を無くして振り向けば、そこにはまた壁に貼り付けたような青色の扉があった。
「さ、彼の物語の続きを知りたければ、君の名前の2文字目を教えておくれ」