第1章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

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イーストガーデンの正面へ回ったケイト達は、まるでイーストガーデンの奥から立ち昇るような濃い霧を見て立ち尽くした。

「なんだよ、これ……」

「すごい、ですね」

先ほど齋藤の部屋から見下ろした時には、こんな有様では無かったはずだ。
ほんの1時間程度で中に入るのが躊躇われるほどの霧に覆われている。
瞑夜は辺りを見回した。

「どうやらイーストガーデンの中だけに霧が立っているようです。人為的なものであれば、ただの水蒸気でできているとも限りません。不審なので様子を見ましょう」

「そうだな。……ってシド!」

気が付けばそこにいたはずのシドは、なんの躊躇もなく霧の中へ入っていってしまったようだ。
もう姿が見えない。

「あの、馬鹿〜!」

「ちょっと!!」

ケイトは瞑夜のコートのポケットからハンカチをひったくると、口に当ててイーストガーデンに飛び込んだ。

「……冷静かと思えば、頭に血が上りやすいのは相変わらずですね、ケイト」

瞑夜はそう呟いて、霧が無臭である事を確認すると、大きな声で叫んだ。

「ケイト!20数えてシドが見つからなかったら戻ってきなさい。それ以上は無駄です」

わかった、と中から返事が来る。

「まあ、シドも携帯持ってるから大丈夫だろうけど」

やがて、渋い顔で戻ってきたケイトが、やや湿ったハンカチを瞑夜に返す。

「あいつ、意外とすばしっこい」

「転んで頭打ったりしてないといいんですが」

「霧、マジで濃いよ。何があったんだよって感じ」

「10号室で物音があったっていうのも不思議ですしね」

「……なんか、ちょっと怖いよな」

「怖い?」

瞑夜は説明を促すようにケイトを見る。
ケイトは瞑夜から離れて、道を挟んだ反対側へ行くと、煙草に火をつけた。
そして、しばらく流れていく煙を眺めた後、やや低い声で言った。

「怒らないで聞いてくれよ。……俺、ハルがシドを連れてっちまったら怖いなってちょっと思った。それでなくても、あいつらの友情行き過ぎてる感じするからさ」

ああ、と納得して瞑夜は頷く。
本来シニカルな弟が、シドといると年相応に無邪気な顔を見せた。
共通点のあまりなさそうな二人がどうしてあんなに仲がいいのか、当時は少し不思議だったものだ。
でも、あの年頃には珍しくない事かと瞑夜は思っていたのだ。何より、弟が素直に楽しそうで、兄としてはそれが良いことだと感じていた。

「俺だってダチは大事だけど、あんな風にはなれないや。きっと、いない人間と今ここにいる人間なら、俺はここにいる人間を優先して考えるよ」

「確かに、シドはちょっと繊細で心配ですね」

「……心が一個のケーキならさ、やっぱり親友とか親とか、特別でっかく切り分けてやりたいと思うのが普通だよな」

「ケ、ケーキ?」

「でも、たまに連絡取るくらいの軽い付き合いの奴にも、俺は取り分けてやりたいって思うわけ。それを、シドは丸々一個ハルにやっちまうんだよね」

瞑夜の脳裏に、大きなイチゴのショートケーキが綺麗な皿に乗って机の上に現れる。
それは柔らかく弾力があって、甘そうで、崩れやすく、脆い。

「すげえなって思う反面、友情ってそんな重いもんばっかが本物なわけじゃないだろ。ケーキは、全部ケーキなんだから」

ケイトの心はチョコレートケーキかな。
そんな想像をしていると、相槌がお留守になっていたせいか、ケイトがこちらを見ていた。

「君は?」

「……え?」

瞑夜はびっくりして、ケイトの顔をまともに見た。
じっと、強い光を宿した目が見つめ返してくる。
思わずたじろいで目を反らせなくなる。

「君は、どう思う?まさか俺を含めて誰ひとり君に友達がいないなんて、思ってたりしないよな?君にはケーキを与える相手、ちゃんといる?」

「そんな……」

「…………」

「そんな、……当たり前でしょう」

ケイトはそれを聞くと赤い唇で笑って、煙を吐いた。

「冗談だよ」

「……ちょっと、やめてください。何だか心臓に悪い」

嫌そうな顔をする瞑夜に、悪い悪いと悪戯そうに笑っている。
瞑夜はむすっとしてそっぽを向いた。
けれど、内心自分の中に生まれた問いを強引に消すことができず、すっきりしない気分でいた。
瞑夜はケイトが「君は?」と言った時、こう聞かれるかと思ったのだ。


俺が姿を消しても、君はシドみたいにずっと俺を忘れないでいてくれる?














いつの間にかケイトや瞑夜とはぐれていた。
というか、イーストガーデンに入ったあたりから二人がいる記憶がない。

「……13、14、15……」

シドは、数を数えながら霧のイーストガーデンを歩いていた。
あの頃より身長が伸びている。
小学三年生の自分は、どれくらいの歩幅だったろうか。

「次は西に47…」

自分の足元すら定かでないほどに霧が濃い。
それを恐ろしいとか不気味だとは思わなかった。
彼には夏の日差しの方がずっと恐ろしい。

「18、19、20……」

シドには自分が今、イーストガーデンのどこにいるかが割と正確に分かっていた。
昔から歩く時に数を数える癖がある。
幼い頃あんなに何度も通った道を、間違えるはずがなかった。
シドは視界の不自由な世界をほとんど普段と同じように歩いていく事ができる。
とはいえ、纏わりつくような霧は不快で、泥道はぬかるんで足を取られたし、途中、段差に何度か躓いてしまった。
本来であれば、面倒な事はせず真っ先に10号室に行くべきなのに、自分の足が何故か別の方向へ向かっているのも、シドには理由がよく分からない。


「……到着」


シドは立ち止まる。

そこは、シドとハルシオンがよく待ち合わせていた、ハルシオンの母親の店の前だった。
木と店が陰になって、日光が苦手なシドでもそこにずっといることができたことを覚えている。
今日は、その店すら満足に見えない。

シドは昔自分がハルシオンを待っていた木の下を見つけて、そこにしゃがんでみる。
ハルシオンと出会ってから、何度ここで待ち合わせしただろう。
見える風景が違いすぎて、あまり実感が湧かなかった。


「約束の時間に君が来なくても、俺は何もしない。君が来るまで、ずっと待ってる」


シドは呟くと、目を閉じて、霧の中を友だちが向こうの道からやってくる姿を思い浮かべてみた。
しかし、どうやっても、成長した彼の姿を仔細に想像するのは、シドには難しい。
シドの頭の中のハルシオンは、瞑夜のなりそこないみたいな姿になり、やがてぐにゃぐにゃと歪んで霧の中に消えてしまった。
在りし日の姿はこんなにもしっかり覚えているのに、シドの中のハルシオンは途中でぷっつりと途切れている。


「…………何か、すればよかったな」


胸を満たしているのは、さみしい、という感情だとシドは思った。
シドはハルシオンと出会うまで、遊ぶ約束を交わす相手すらいなかった。
待つ人のいる楽しさと退屈さを教えてくれたのはハルシオンだった。
彼の瞳越しに世界を見ると、シドのモノクロの世界が鮮やかに色付いて、眩暈を起こすほど美しかった。


「怒ったり、探しに行ったり、喧嘩したり、すればよかったのかもしれない。そしたら……」


そんなありもしない過去を思い描いてみたが、小さく微笑むと、シドは立ち上がった。


「だから、今度は君を探しにいくことにするよ。ハルシオン」


シドはすっと前を見据えた。
そして、頭の中のイーストガーデンと齋藤の言った10号室の行き方を照らし合わせる。
頭は冴えわたっている。
何も、心配することはない。
数字だけは、彼を絶対に裏切らないのだから。








イーストガーデンの複雑な立地は、しかし、所詮は人が考えた設計である。
特に、10号室の入り口は、素直な場所にないという一点を除けば、寧ろただ背面に回しただけのシンプルな仕掛けだった。
設計者が何を思ってそう作ったのかシドには知る由もなかったが、小さな子供の頃ほど手放しですごい、とは思わなかった。
そういう意味では、摩訶不思議な庭園というよりも捻くれ者の庭園という方が正しい評価かもしれない。
だが、イーストガーデンの美しさや日常と非日常を上手く溶け合わせる工夫は、シドが逆立ちしても作り上げることはできないだろう。
この霧にしたって、どうなっているのか分からなかった。

「……55、56、……」

霧の中を歩いていると、たまに平衡感覚が狂った。
足先に伝わるのは堅い石畳の感触なのに、足首は雲の中に消えたようになっている。
急に現れる、通路にまで伸びた蔦の葉や、壊れて折れた看板の影に、シドはその都度びくりと肩を振るわせる。

「13、14、15……」

不意に、隣を誰かが歩いているような、そんな気持ちになってきた。
同じくらいの背丈で、自分に足を揃えるように足を運んでいる、そんな気配だ。
シドは気のせいだとは思いながらも、歩みを止めてそちらの方向に目を向けた。

「…………ハルシオン……?」

途端に、シドの足元からすうっと霧が晴れていく。
嘘のように、そこにはいつもの荒廃したイーストガーデンがある。
何もない。誰もいない。
不思議と、柱や地面が霧つゆで濡れた様子もなかった。
本当に魔法のように跡形もなく元のままに戻ったのだ。

「……気のせいか」

シドはそれを大して気にするでもなく、進行方向に顔を向きなおした。
あと数歩向こうに、探していた部屋の扉があった。

翼の印に、10の数字。

シドは祈るように、しばらく目を瞑ってそこに立っていたが、やがて扉の前まで行くと、冷たいドアノブに手をかけ、力を込めた。