第1章
プロローグ
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エピローグ

INDEX

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窓が白く曇っている。
暖房の入った室内は空気がこもっていて、憂鬱だった。
同級生たちの、甲高い声が頭に響いて不快だ。
彼女は無表情のまま、読んでいた本に視線を戻した。けれども、もう集中して読むことが出来なかった。先を読もうと文字を辿っても、それは意味を頭に伝える前にぐにゃりと輪郭を失ってしまう。
彼女は静かにため息をつく。
この小さな世界は、彼女にとって息苦しい場所だ。
たった35人の子供たちを囲う狭くて醜悪な箱。
35人の呼吸が、上昇し、混じり合い、箱を満たしてゆく。
目眩がしそうだ。

彼女は孤独である。
長くボリュームのある髪を、二つに結んで三つ編みにしている。
色白で、メガネの下に隠した睫毛は重たく、前髪は眉毛の下で綺麗に切り揃えられている。
家族は健康でたまに諍いがあるものの仲が良く、学校も彼女が希望した中学校だ。
友人は少ないが、いないわけではない。恋人はいないけれど、それは彼女自身が特に望んでいないからだった。
それでも、彼女は孤独だった。
彼女の孤独は、彼女の望みでもある。

同じ年頃の同じクラスの生徒に、彼女は魅力をあまり感じないのだった。
もっぱら、一部の深い知識と品性を持った教師の方がよっぽど彼女を惹きつけた。
けれども、教師や歳上の友人たちも、彼女の望む『だれか』にはなり得なかった。その事が、彼女を少し厭世的にしていた。

彼女はそんな自分を隠す気はなかったので、彼女をクラスメイトたちは嫌味な奴だと思ったり、逆に仄かな憧れを持って見ている。
授業でグループを作るとき余ってしまったり、失敗をした時に誰もフォローをしてくれないけれど、彼女は努めてそれに挫けないようにしていた。何故なら、孤独であることは、彼女が自分で決めた事だからだ。

大切な人が消えてしまった日から、彼女は変わったのだった。





学校の帰り道、彼女はちらちらと雪が舞っていることに気がついた。
彼女は雪が好きだった。

「どうりでほっぺた痛いと思った……」

赤くなった頬をさすりながら踏切りが上がるのを待っていると、不意に踏み切りの向こう側に立っている人物が目に入った。
少年の人形のように、濃紺のセーラー服を着て、揃いの紺色の帽子を目深に被っている。キャメルの鞄や膝下できっちり留まった靴下は品が良く、けれどもその子はこの寒さの中で、少し薄着に見えた。

「あ……」

物珍しい姿にしばらく見ていると、少年が何かを落とした。
それは小さくて硬質で、少し光りながら地面に落ちたようだった。そして、少年はそれに気づいていない様子だ。

「あ、あの」

呼びかけると、少年は少し顔を上げ、その後何故か背中を向けて向こうの道を歩いて行ってしまった。

「待って!」

踏み切りが上がりきるのももどかしく、少年のいた場所へ行ってみると、そこにあったのは翼の形の飾りのついた鍵だった。
大事なものだろう。今すぐなら届けられる。彼女は急いだ。
こんな時は長い髪が鬱陶しい。
拾った鍵を握りしめ、少年の姿を探しながら走る。
踏み切りを越えた道を右に曲がった所で、少年の履いているブーツが角の向こうへ消えていくのを見つけた。
見つけた、と喜ぶ暇もなく追いかける。
少年は大層足が速く、足の一部や鞄、落とした帽子を拾う手などが、彼女を嘲笑うように断片的に姿を表すばかりだ。
いくら彼女が呼んでも、少年は立ち止まってくれなかった。



もう、走れない。

どれくらい走っただろう。諦めて交番に届けようか。
肩で息をしながら周りを見渡せば、すぐそばの建物、のようなものに入っていく形の良いハイソックスのふくらはぎが見えた。
彼女がこんなに必死で走っているのに、少年の足取りは妙に軽やかで憎らしかった。

少年の入った建物の前にやって来た彼女は、そこで立ち止まって首を傾げる。

「イースト、ガーデン」

アーチ状の石の門に掘られた文字は、「EAST GARDEN」とある。
門の向こうにはレンガの敷かれた道が続き、それを囲う石の壁には蔦が巻きついていた。
やや人を拒むような雰囲気の入り口だ。
どういう場所なのか分からず、しばらく入るのを逡巡していたが、腹を決めて入ってみる事にした。


細いレンガの道の横にはコンクリートの細い柱が規則的に建っており、その下の方には電燈が埋め込まれている。
柱の向こうに浅い溝があるのが見えた。
水が流れているのが分かるが、所々凍っている。
彼女は不思議な空間を観察しながら足を進める。
柱の道を抜けると、一転して開けた場所に出た。
バレリーナが踊れそうなくらいの空間を囲んでいるのは、コンクリートの柱と、ガラスのショーウィンドウ。蔦や観葉植物に、カラフルな電飾。

ショーウィンドウの中はどこも彼女の興味を引くような、綺麗な物であふれていた。
大きなジンジャーボーイがいるのはお菓子屋さんやだろうか、パン屋さんだろうか。綺麗なドレスが飾ってある店、宝石の原石のようなものが山ほど箱に入って置いてある店。ホームズが持っているようなパイプが描かれた看板の店は、窓際で毛足の長い猫が眠っているのが見えた。
どの店も暖かそうで、楽しげで、店主のこだわりがうかがえる物ばかりだった。
一瞬ここへ来た経緯を忘れかけた彼女の背中に、いつの間に現れたのか、声がかけられた。

「君、だれ?」

少し鼻にかかったような声だった。
恐る恐る振り返れば、すぐそこに今まで追っていたセーラー服の少年が立っていた。
やっと会えた、と彼女は胸を撫で下ろす。

「これ、落としたようだったから」

少年は差し出された彼女の手のひらのものを見ると、すぐには受け取らず目を細めた。

「ああ、それ……」

てっきり感謝されると思ったのに、少年の反応は冷ややかだ。

「わざと落としたんだ」

「え、どうして」

「まあ、色々あって?」

彼女は少年に振り回されているような気分になり、やや強引に少年の手を取り鍵を渡した。そして、踵を返す。 すると背中から追いかけるように少年の声が聞こえた。

「せっかくここまで来たんだから、少し遊んで行けば?」

「今日は塾があるから」

「そんなのさぼっちゃえばいいじゃない」

彼女は振り返る。少年の背は、彼女より少し高いくらいだろうか。
どこか人形じみた品のある硬質な顔立ちや長くすらりとした手脚は魅力的で、きっと彼の人生は思いのままだったろうと彼女は思った。
自分の誘いを断られることをあまり想像したことのないタイプ。あまり好きじゃない。

「私、そういう決まりごとを破るの嫌いなの」

「ふうん」

そんな彼女に、少年は片方だけ唇を吊り上げて、考えるような表情をした。
そして、彼女に近づくと悪戯っぽく笑う。

「じゃあ、今度もっと時間ある時にまた来てよ」

「………気が、向いたら」

小さな声で答えると、彼女は少年に背を向ける。
いつになく走ったり、感情を高ぶらせ疲れてしまった彼女は、少しぐったりとして柱の道を引き返した。
途中で思い出したように振り返れば、少年はちらつく雪の中、こちらを見ながらくるくると指で帽子を回していた。

「そういえば君、名前は?僕はハルシオン」

少年はにやり、と猫っぽく笑う。
変わった名前だ。 長くて呼びにくいが、少年の雰囲気に合っていないこともない。

「私、は……」

「やめた。やっぱり次会った時に聞くことにするよ」

意図が読めず怪訝な顔をする彼女に、ハルシオンは笑みを深める。

「ばいばい」

帽子を被ってひらひらと手を振る彼に再び背を向けると、彼女は塾に向かうため早足で帰っていった。