こんな噂を知っているだろうか。
夕刻、子どもが外で一人でいると現われる怪人の噂だ。
その怪人は、紳士風の上等な身なりをしていて、手に風船を持っている。そして、奇妙なことに頭に兎の被り物を被っているのだ。
兎の被り物は、子どもには本物の獣の頭に見えるくらい精巧だ。髭は震えるし、赤い瞳は瞬きもする。近づけば少し動物臭い。
当然子どもらは怯えるが、怪人はそんな彼らに恭しく一礼し、簡単な手品などを見せたりする。そうしてすっかり子どもの心を惹きつけた後、風船と一緒に真っ黒な洋封筒を差し出す。
それは、その町にある唯一の遊園地ーー廢園地ーーへの招待状である。



私の少年時代に、そんな噂が流行ったのだ。
廢園地とはとっくに閉園した昔の遊園地の事で、廃墟の遊園地だからそう呼ばれている。
本当は正式名称があるのだが、だれもその名前では呼ばない。
当時子どもの失踪が相次いだのと、廃墟の遊園地に対する我々の好奇心がこの噂を大きくした。
子どもたちは兎頭の怪人を探したがり、人攫いを警戒した親たちはそんな子どもたちを家に閉じ込める。
誰々の知り合いの話らしいんだけど、と噂の出元はあやふやだ。
けれども、私だけは本当である。
私だけは、噂の真偽を知っている。
だれも信じないけれども、私は兎頭の怪人を確かに見たのだから。


一緒に遊んでいた他の子は貰ったのに、私だけ招待状をもらえなかった。
用意していた封筒が足りなかったと謝ると、怪人はまた次の時に招待すると約束して私の頭を白い手袋の手で撫でたのだった。
風船を持った仲間たちが楽しそうに怪人と手をつないで廢園地の方向へ消えていくのを見送った。
それ以来「次の時」を待ちながら大人になってしまった訳だが、その時招待状を貰った他の子は帰ってくる事なく、どんなに大人に言っても信じてもらえなかった苦い気持ちと共に、その思い出は私の心の核に近い部分で凝固したままであった。
怪人の白い手袋と、夕焼けの中で見た友人らの最後の姿が私の原風景だ。
私はずっと、廢園地へ行きそこなった子どもとして、観覧車の見えるこの町で育ち、働いて、今ではあの頃の自分くらいの子供を持つ中年になってしまった。
きっとこのまま老いて次第に色褪せてゆく記憶を抱えたまま死ぬのだろう。
そう、思っていた。



今、私の前に黒い封筒が差し出されている。
差し出す手は白手袋ではない。
つるりとした、男にしては優美で、女にしては大きな手だった。
「随分お迎えが遅くなってしまいました。坊っちゃん、わたくしの遊園地で一緒に遊びましょう」
お友達が待っておりますよ。
そう笑った顔は人間の顔で、けれどもやはり男なのか女なのか分からない。
会社からの帰り道での事である。

気が付けば、町には奇妙に私達以外の人間の姿が見えない。
ごくりと生唾を呑んで、血溜まりのような蝋で閉じられた封筒を開くと、そこには確かに遊園地への招待券が入っている。
「さ、急がないと日が暮れますよ。本日は特別なパレードが御座いますから、見逃しては大変です。行きましょう」
優しく差し出された手を、夕陽が赤く染める。
カナカナとひぐらしが鳴いていた。
家では妻と子が私の帰りを待っている。
…………。








「うんっ!」








僕はうなずいて、そのひとの手を握った。
ずっと迎えに来るのが遅いって怒ってやろうと思ってたのに、そんなのどうでもよくなった。
急がないと、パレードの音楽がすぐそこまで聴こえてきている。

夕焼けが優しく僕たちを包みこんだ。