知らず、前かがみに歩いていた。
日傘を差して歩ける女たちが羨ましい。
炎天下の中、半ば朦朧として、Rは殆んどなんにも考えないで歩いていた。
頭の中で、彼は犬のように舌を出して熱い息を吐き歩いている。
実際にはそんな醜態は見せなかったけれども、そのくらい暑かった。


商店街の並びに、薬局堂という文字が見える。
所々にひびの入ったような古い青銅の建物で、店の入り口のガラスは曇っているし、中は暗くて殆んど見えない。
硝子戸が数センチ開いているけれども、これじゃあやっているのかやっていないのか分からない。
この辺りの店が皆似たり寄ったりだとしても、特に客が寄らないのは店主のやる気の
なさの表れである。

数センチの隙間から洩れる冷気に、Rは心中狂喜乱舞した。
もう、暑くて暑くてまいりましたよー、と挨拶も忘れて中に駆け込めば、いらっしゃい、と勘定台の向こうに寝そべっていた主人が笑う。
しかし、Rは薬を買いに来たわけではない。この炎天下の中、わざわざ暇を潰しに来た
のである。
店主の菊叉は、煙管をふかしながら金魚鉢に餌をまいていた。
実に優雅な身分である。
菊叉といい、七ツ星実験病院の院長といい、客(あるいは患者)なしにどうやって生計を
立てているのかRにはいつも謎だ。
もっとも、働く様子もない廃れたテーマパークの管理人、齋藤が一番の謎である。
小説家の九条は生活に窮している様子が見受けられるが、先の三人はいい大人でありながらまともに仕事をせず、それでいて異様に優雅である。心の中に、高等遊民という文字が浮かぶ。

「Rさんは名前はみつかったのかい?」

菊叉は人好きのする顔を綻ばせてそう尋ねた。
Rと会うと、必ずする質問である。Rは、黙って首を振るのが常だ。

「そりゃあいけないねえ。いつまでたってもそんな記号みたいな名前じゃ心細いだろうに」

「おや、名前とはもとより記号でしょうよ」

しみじみ、といった調子で紫煙を燻らしていた菊叉は、唐突に勘定台に目から上だけを覗かせた齋藤を見てせき込んだ。

「さ、齋藤さん。あんた、どっから出たんですか」

「Rさんと一緒に参りましたよ。挨拶もしましたが」

涙目の菊叉に、齋藤はけろり答える。
そう言えば、菊叉の店に向かう途中、東苑寺の病院から帰ってきた齋藤と出くわし同行したのを、Rはすっかり忘れていた。何故か途中から齋藤の印象がまったくない。暑さに頭をやられたのかもしれなかった。
なんとか咳を止めたと思った菊叉はカンと煙管の灰を落とし、齋藤を少し恨めしそうに見た。
齋藤は齋藤で名前の見つからないRを気の毒がっている。

「それでもいけませんね。名前は大事ですから。わたくしも自分の名前がたまにとても愛おしくなるわけです。誰がつけたのか知らないけれど、きっとせめて三までは数を数えられる人になるように、という温かい配慮の
窺える名前であります」

そんな配慮があったかどうかは謎だが、齋藤の名前は一二三という。
菊叉の名前は知らない。菊叉は屋号だから別にあるはずなのだが、皆菊叉と呼ぶ。

「齋藤さんはいいでしょうよ。三まで数えられるお似合いの名前でさ。もしもRさんがひでぇ名前だったら、戻ってきたときい厭ぁ
な気分になるかもしれないぜ」

さっきまでRの名前が戻らない事を気の毒がっていたはずの菊叉が、齋藤に変な横やりを入れた。

「じゅげむさんとか?」

「そうそう。御手洗金太郎之介五郎座絵門とかさ」

「傴僂象二踏稀介さんとか」

「足ノ裏臭之信とかね」

なんのことはない。二人とも、大してRの名前の無いことを気にしているわけではないのである。
ここに九条がいたら大いに顔をしかめたことだろうが、名前とともにアイデンティティを失くしたRには、怒る理由もなかった。

ひとしきりヘンテコな名前を挙げ連ねていた二人だったが、菊叉がふと思いついたように言う。

「あたしらに出来ることなんてさ、神頼みくらいかねえ」

あまりぱっとしない提案だとRは思った。

「天神さんとか、柚子神さんとか、この辺でも色々あるしねえ」

「達磨はどうです?」

齋藤が小さな達磨を勘定台に乗せて言った。

「いいねえ、達磨。近くにあるよ、念願叶うと名高い姉妹達磨が」

「姉妹達磨?」

齋藤に人の頭くらいの達磨を持たされたRは、首を傾げた。

「ちょっと歩くけど、姉妹が売ってる達磨があってさ。ちょうどこのくらいの小さい達磨で、それがなかなかの評判。上の悠子は16歳。下の幸子が14歳。ちっと小さいけど、これがなかなかの器量って話よ」

どうやら姉妹云々の話が菊叉の興味を引いて頭に残っていたらしい。

「ところで、齋藤さん。この達磨はどこから出てきた?」

「わたくしの風呂敷から」

明らかに風呂敷の大きさに合わない大達磨に腰かけて、齋藤は微笑んだ。

「わたくし、最近達磨を集めております」

まったく、齋藤さんには参るね。と菊叉は呟いた。






次の日連れだって姉妹達磨を冷やかしに来た三人は、最初にその小さな店の中の達磨の数に目を丸くしたが、すぐに達磨ひとつひとつの造形に目を奪われた。

「こりゃあ…」

Rは菊叉の言葉の続きを、知らず心の中で呟く。
不気味だ、と。

その片手で掴めるくらいの小さな達磨軍は、通常の達磨と違い顔の部分まで赤く塗られている。
赤い色は達磨によって異なる。朱に近い物もあれば、紫とも言えそうな色のものもあった。
しかし、何より異様なのはその顔の人間らしさだ。たおやかな姫達磨から老人のしわを刻まれた年寄り達磨まで幾種類にも渡ったが、いずれも目を見開いてこちらを睨みつけているのは同様だった。片方の黒目はない。

「いらっしゃいませ」

赤の洪水の向こうから、色白な娘が顔を出した。続いて、妹らしい娘が、小さな声でいらっしゃいませ、と続けた。

「すごい数だねえ」

菊叉が人慣れした様子で話しかけると、姉の方が快活に応じた。

「はい。私たち姉妹が毎日彫って作っております。よろしければお一つお兄さんもお願いします」

「そうさね。あたしは綺麗な女の顔をした奴がいいや。しかし、こんな細かいこと彫れるなんて感心だ」

「指が小さいのが良いようです」

娘と談笑する菊叉を他所に、齋藤は他の客と交じって達磨を選っているようだ。
顔面すれすれに近づけて幾つも選り分けている様子を見て、Rは良くもこんな趣味の悪い物をまじまじと見られるものだと呆れた。
けれどもせっかく来たのだから、とRもひとつ掴む。
桃色に近い薄い赤色で、どうやら赤子の顔をしているようで起伏も少ない。一番ましなのを選んだつもりだ。
それを、妹の方に差し出して売ってもらった。
話し上手な菊叉はまだ娘を笑わせている。齋藤の真剣さもあり、Rは当分ここから出られないことを予想した。

「おや、昭俊さん」

唐突に素っ頓狂な声を上げた齋藤の方に、視線が集中する。
齋藤はひとつの達磨を掲げて、そう言ったのだ。
確かにこれだけの数があれば、中には知人に似たものが見つかっても不思議ではない。
けれども、Rは店の娘の妙に強張った顔を見て首を傾げた。

「あの人はちょいここの変な人でね。でも悪い人じゃないよ。聞いたことあるだろ、廢園地の持ち主」

菊叉が自分の頭を指差しながら安心させるように娘に言った。
姉は少し顔を綻ばせたが、それでも顔色は悪い。妹は始終無表情である。

「まあ、あの廢園地?私、一度行ってみたいって子供の頃から思ってたんです」

「なに、本人に頼めば招待してもらえるさ。ねえ、齋藤さん」

後半は齋藤に対しての言葉だったが、齋藤は達磨を1つ掴んだまま違うものを見て放心している。
そして、いきなり店の奥の特別大きな達磨を指差して、妹に尋ねた。
特別製の達磨は他の達磨と違い、一般的な達磨の形状をしている。それでも、物凄い迫力がある。

「あの達磨はいくらでしょう」

妹は戸惑ったように姉の顔を見て、姉が代りに答えた。

「すみません、お客様。あれは売り物ではないのです」

断られることを予想していたのか、齋藤は眉を八の字にして残念そうに、

「そうでしょうね。それではこちらの昭俊達磨、下さい」

と手にしていた赤黒い達磨を姉の手に乗せた。
じゃああたしはこれ、と菊叉は女の顔の達磨を売ってもらう。
張り子細工ではないようで、小さいながらも達磨はずっしりとした重量があった。

包みを菊叉に手渡しながら、姉は齋藤に尋ねる。

「あの、父を御存じなんですか」

齋藤は風呂敷に達磨を仕舞いながら答えた。

「直接には存じません。生前御立派な職人だったと聞きました。お父様のお作りになった達磨を、わたくしも幾つか所有しております」

その言葉に、やっと警戒を解いたのか、気立てのよさそうな笑顔になって、

「父は私たちの自慢でした。またどうぞいらっしゃって下さい」

と微笑んだ。
娘の笑顔を土産に、三人は店を出た。




「何というか、奇妙な達磨ですね」

「うん」

帰りの道で、先程はおくびも出さなかった菊叉が、大きく頷いた。

「なんか、ホントの生首小さくしたみたいで不気味さね。しかもあれだけの数となると…」

まじまじと菊叉が眺めている女の達磨を、齋藤がひょいっと取り上げた。

「でもこれ、本当は達磨じゃ御座いませんよ」

ひくひくと鼻を動かして匂いを嗅いでいる。

「じゃあ、何だって言うんです?」

「水菓子です」

Rの問いにきっぱりと答えて、齋藤は達磨の頭を齧った。
止める間もないことだったのでRと菊叉はあっけに取られたが、菊叉はすぐに我に返って達磨を取り返した。

「齧るんなら御自分のでやってくれよ。こいつはあたしの達磨でしょうが」

「でも、見て下さい。中は黄色いでしょう」

齋藤の齧った部分だけ、林檎の中身のように黄色い。そう言えば、李のような甘い匂いがしないではなかった。

「でも、こんな人間の顔した実があったら不気味でしょうが」

「そうですか?西洋にはマンドラゴラなどありますが」

「そんな眉唾、東苑寺先生に聞かせたら笑われちまうや」

「そうですかそうですね」

齋藤は自分の達磨を取り出して見た。
Rが見せてもらうと、今にも指を齧られそうな赤黒い男の顔の達磨である。

「これが、昭俊さんなんですか」

「最近読んだ御本に達磨に囲まれた写真が載っていましたので、間違いないかと。店の奥にあった大達磨は、この方が作った達磨だと思います」

ただでさえ気味が悪いのに、人面の果物という疑惑までついて、おまけに齋藤の言い方ではまるで達磨が本人かのようである。不快の極みだ。
Rは鞄に入れた自分の達磨を何処かに捨てたいと思ったが、それも罰があたりそうに思えてやりにくかった。






後日、Rは菊叉の店の棚の上に齋藤の歯形付きの達磨と、横にもうひとつ新しい人面達磨を見つけた。

「いや、齋藤さんに齧られたんでもう一個買おうと思ってさ」

本心がどこにあるかは知らないが、菊叉はあの不気味な達磨屋に、今度は一人で行ってきたらしい。


「そしたら姉の方が亡くなったみたいでね、妹の方が別人みたいに明るくなってそいつを売ってくれたよ」


へえ、と相槌を打ち、けれども手に取りたくないので見上げるようにして件の達磨を眺める。
そのうち、嫌なことに気がつく。
Rが菊叉を見ると、言わずとも心が伝わったようで、うんうんと頷いている。


「………そうなんだよね。その達磨、あの娘にそっくりなんだよ。一体どういう絡繰だか」


紫煙漂う薬屋で、姉達磨がふふふと笑った。