『その町、人影がなく厭に寂しい。しかし矛盾することに人の気配はあるのだった。寧ろ、沢山の人間がいるようにさえ思える』

その小説が届くようになったのは、長谷川が失踪してから三月ほど経った頃である。
毎回原稿用紙にして5枚程度。連載小説の如く、添え書きもなしに数日と空けず自宅に届く。
送り主には長谷川の名が記され、文字も奴の癖字の通りだったから、長谷川が何を思ったのかそんな酔狂な真似をしているらしいと黙って受け取っていた。
住所はないが、消印はY町となっている。聞き覚えのない土地であった。
家族や職場に教えようかとも思ったが、きっと長谷川にも事情があるのだろう、黙っていた。
話の中に出てくる町もY町であったから、てっきり旅行記か隨筆かと思って読んでいたのだが、話が進むにつれ、主人公と長谷川の人物像がぶれ始める。それで、私はそれを巧妙に現実の混ぜられた小説と仮定した。
話は平凡ながらに安定した生活を唐突に捨てた主人公が奇妙な町へ辿り着く所から始まる。正直文章は上手くないし進みも単調だ。けれども、それにも増して魅力があった。魅力的なので、私は段々読むのが厭になってしまった。


長谷川は、私の同郷の友である。
割と親しくしていたし、どちらも高等学校を出て直ぐに上京したので、帝都暮らしになってもしばしば会って話した。
私は趣味で小説や詩を書いていて、それを長谷川に読んでもらっていた。長谷川は無邪気に私の作品を賞賛し、そんな折は決まって気分が良くなったものだが、虚しい事に私は自分の欠点を厭というほど知っている。
「秋月はすごい。作家先生に弟子入りするべきだ。読んでもらったらきっと偉い先生も才能を見込んでくれるだろう」
私は時折、君も書いてみたら良いと唆したが、長谷川は困ったように笑うばかりだ。
「僕みたいな凡人には到底無理だ。読むのは出来ても、書くのは特別な資格のある者しかできないよ」
「そんな事はないよ。日本語を知っていれば誰にでも書けるさ。君は本をよく読むし、案外と誰にも書けないような話をさらっと書いてしまったりしてね」
「それは秋月の雄弁な妄想だ。僕は一生読者で満足だよ」
そう、一生読者でいればよかったのだ。
何を思って今更小説など書いて、私にのみ送りつけてきているのだろう。
仕事をしている時や、自分の小説を考えている時、気がつくと長谷川の小説の事を考えていたりする。
私は文章こそ人並みに書けるが、筋も平凡でどこか無理があり、食物でいうと雑味だらけである。
以前尊敬する作家へ送った原稿にこんな赤が入って返されたのは、今でも私の心の奥底で燻り続けている思い出だ。
『独善的で使い古された筋回し。拙し。』



私はしばらく長谷川からの小説を読まずに積んでいた。
するとそのうちに郵便が届かなくなったので、逆に気になって結局封を切る事にした。
相変わらず短い小説の入っているばかりで長谷川が何を考えているのか不明だ。
最後の封筒も他と同じで、ただ、違っているのは未完の小説の終わりに、『続きを君に』と荒々しく走り書きしてあった事だ。
続きを君に、何だと言うのだろう。
『読んでほしい』『聞かせたい』『書いてほしい』『託した』『教えない』『考えてほしい』『あげよう』『探してほしい』
思いつく文句をあててみたが、いずれにしても決定的ではない。
謎は一層私の頭に小説を意識させ、未完の話は魅力を増す。
気になる話。いつの間にか考えてしまう話。
私には一生こんな話は書けないだろうと思い、元より書けなかった小説がより書けなくなった。



次第に腹が立ってきた。
意味不明な小説に走り書き、挙げ句の果て種明かしもなく、奴は姿を消したままだ。
私は、鞄に長谷川の原稿を入れ、消印の町へ行ってみる事にした。
もしも奴にあったなら、原稿を突き返して言ってやろうと思った。
素人が作ったにしてはまあまあだね。やはり拙いところがあるのは仕方ないさ。まあ続きを書いたら読んでやってもいいかな。
私の原稿に忌々しく刻印された『拙し。』の文句。
奴に私と同じ呪いを掛けてやろうと思った。そうしたなら、私の呪いが薄まるような気がしたのだ。


駅に着いて既に、人の姿がまるでない。
駅員はいたが、駅を出ても人気はないので気味が悪い。
花の帝都と言えど、華やかなのは名所ばかりで、一本道を逸れると貧しくみっともない姿を表すものだ。
しかし、この町は寧ろ小綺麗で洒落た、小都会に見えた。そこに人ばかりいないから不自然なのである。
あまり深入りすれば隠されてしまいそう。
そういえば、この町から原稿を送ってくる長谷川こそ、まるで神隠しに遭ったようである。

床屋、水菓子店、肉屋、団子屋、八百屋、本屋、氷屋、喫茶店、花屋、薬屋……。
どれも営業途中に店員が店を放って出て行ったような体である。
ハタキが棚に置きっぱなしにされていたり、何なら湯気の出ている珈琲が机に置いてあるのに人がいなかったりする。
「何だい、これじゃあお店の展覧会じゃあないか」
あまりに異常で最早見物と洒落込みながら歩いたが、さすがに中にまで入ろうとは思わなかった。
本当のところ、私は少し怯えていて、だからわざと茶化すような事を大声で言って、何でもない事を笑い飛ばしながら進んだ。
しかし、私はある店の前で立ち止まった。
立ち止まらずにはいられなかったのだ。
それは古びた青銅で出来た建物で、色硝子から胡散臭い大小の薬壜が陳列されているのが見える。磨りガラスの引き戸には『菊叉薬局堂』と隷書体である。
私はそこで虚勢を剥がされ、食い入るようにつぶさに店を睨み見た。
何故なら其処は、長谷川の小説に出てくる薬局堂そのものだったからだ。
硝子戸はほんの少し開いて、中の暗闇が見えていた。
『建てつけの悪い扉を、菊叉は半ば諦めていた』
小説通りなら二階は主人の家だ。窓が雨戸で締め切られ、中は見えない。
『彼は意外と綺麗好きである。寝床は特に念入りに掃除している』
中にいるのは菊叉か長谷川か。
硝子の向こうの闇が、私を手招きしているようだった。

がたがたがた、と喧しく鳴って、扉が開く。
中はやはり暗く、埃が舞っているようで少し黴臭い。そしてそれにも増して薬品臭い。
勘定台の向こうは1畳半の畳が敷かれており、其処から奥へ細い木の廊下が続く。
薬屋にして異常だったのは、左右の両壁に沿うようにして大きな水槽がある事だ。
中には金魚が大勢泳いでいる。
『金魚と煙草と酒と女。菊叉は、このどれを無くしても人生灰色だと考えていた。』
「もしかしたら二階か奥に長谷川がいるかもしれないな……」
いなくても怖い。いたらもっと怖い。
水槽に酸素を送る音が、大きく聴こえたり、逆に聴こえなくなったりする。
気付けば、私は白くなるくらい掌を握りしめていた。
下駄を脱いで、勘定台の上にあがる。
すると、不意に耳の奥がツンとなり、今まで水槽の音しかしなかったのが、突然自転車のベル音だとか人の声だとか、一気に色々聴こえるようになった。
『菊叉は勘定台に寝転がって、小さな鉢の金魚を可愛がりながら煙管をふかして店番をしていた。たまに、小さな小さな机を持ち出して原稿用紙にペンを走らせている事もある』
私がぽかんとしていると、がたがたと店の扉が開いて、逆光から黒い人影を浮かび上がらせた。
「すみません。風邪のお薬をくださいな」
私は、呆然と振り返り、何故か気づくとこう答えてしまっていた。
「いらっしゃい。ちょうど良い薬が入ったとこだよ」






「え〜何それ。それじゃあ菊叉さんは本当は全然別の人で、小説の中の人になっちゃったってこと?」
「かもしれないねぇ」
畳に座って足をぶらぶらさせていた制服姿の少女が無邪気に笑う。
「まるで怪談じゃないの。それじゃ、菊叉さんは結局その人……長谷川って人に会えたの?」
「それがまだ会えてないらしいよ。どこ行っちまったんだろうねえ。不思議だねえ」
「其処はきちんと考えておいてよ!二人はまた出会って、その時にはお互いを認め合い、友情が更に強まるのだわ」
「そりゃあいい。続きはいろはちゃんにバトンタッチだ」
「いいわ。女流作家ね」
きゃいきゃいとはしゃぐ少女の元に、何処かへ行ってた保護者が戻ってくる。
「いろは、あんまり菊叉さんを困らせてはいけませんよ」
「あら、困らせてはいないわ。今、怪談話を聴いていたの。一二三驚くわよ!なんと、菊叉さんの誕生秘話なんだから」
「おやおや、それは楽しいですね」
保護者は少女の頭を撫でながら、ゆっくりと穴のように黒い瞳でこちらを見やった。
私はこの目が苦手だ。
何を考えているか分からない、この町そのもののような、虚ろな漆黒だ。
「それでは、そろそろお暇しましょう。あ、菊叉さん。其処で郵便屋さんが来ていたので代わりに受け取りましたよ」
「ああ、悪いね」
「菊叉さんまたね」
封筒を受け取り、仲良く店の外へ出て行く二人を見送る。
二人の姿がすっかり見えなくなると、鋏で封筒の頭を切り、中にあった原稿用紙を取り出した。
『菊叉は齋藤の眼が苦手である。まるで闇のように濁りきって、何を考えているのか分からない。この町そのもののように虚ろだ。』
「あ〜あ、何を考えているのか分かんねえのはあんたも一緒だねえ、長谷川よ」
私は原稿用紙を捨て置いて煙管に火をつけた。
水槽の音と、薬品の匂い。それと煙。
単調で閉鎖的で何処か歪な、菊叉の日々。

『続きを君に演ってほしい』

そんな長谷川の声が、何処かで聴こえた気がした。


オマケ