この町に住む子ども達が、絶対に行ってはいけないと教わる所が、幾つかある。
例えば廃墟になったはずなのに客を招く遊園地だとか、人が変わるくらいに病みつきになるレストラン、それから如何わしい雑貨品ばかりを売るお店、などなど…。それらはその時分で増えたり減ったりするのだが、中には少し変わり種もあって、男の子はそう危険じゃないが、女の子は近づいてはならないと注意される、そんな場所もあるのだった。

それは賑やかな商店街を少し逸れた住宅地に紛れている。
似たような家々が立ち並んでいるので、行こうと思っても道に迷ってしまう者が多い。それでもまだこの辺りは日本家屋が多いから、西洋風のその医院は近くに行けばすぐに分かるだろう。
半円型のアーチ窓やバルコニー、小さなドーム型の屋根など、いかにもモダンな様子だ。実はこの建物、最近外観が一新されたものだ。元々和式の病院で空き家だったものが、新しい医者が入ったので改築された。といっても、裏側はまだ昔のままの形が残っていて、その中には入院患者の病床なんかも入っているらしい。病院を囲う塀は洋風だが、外から覗くと以前からあった小さな藤棚が見えたりもする。

さてこの病院、名前を『七ツ星実験病院』という。名前は以前の病院のものをそのまま引き継いだらしい。何を専門としている病院かもよく分からない。西洋医学に長けているという話だが、なんにせよ怪しい雰囲気である。それでもこの陰気な病院に人が入っていくのは、町に病院が少ないからだ。
繁華街にもうひとつ大きな病院があるが、そこはそこで問題があるので、結局この町の住人が病を患った時には外の町の病院を訪ねるか、或いは七ツ星実験病院の門を叩くかの二択になってしまう。その際、患者がもしも女性である場合は、例え急患でも隣町へ行った方が良い。何故ならこの病院の門をくぐった女は、それが小さな子供であっても二度と帰って来ないからである。

院長の東苑寺は数年前にふらりとやって来た男で、以前は有名な大学の病院で働いていたらしく、開院当初は非常に頼りにされた。
腕も確かで喜ばれたが、同じ頃女の失踪事件が何件か問題になり、それが病院へ行ったっきりいなくなる、という状況で一致したので、当然東苑寺が疑われるに至った。
病院内も調べられたが、彼と彼の妻以外には誰もおらず、証拠も無かったので事件は家族の泣き寝入りに終わった。その後もぽつぽつと女ばかりいなくなったが、前からなんの進展もない。
そんな事もあり七ツ星実験病院は『女喰いの病院』と不名誉な陰口を叩かれるようになるが、ひとつにはそれが院長の東苑寺が非常に美しい容姿をしていたせいでもあった。
いかにも女の好きそうな涼やかな顔をした、歌舞伎役者のような男である。暗い表情や服装にも気を遣っていない様子が、逆に気取っていなくて良いとご婦人には評判のようだ。酷い噂があるのにも関わらず、浮ついた女学生などが一目顔を見ようと病院近くをうろうろ歩いている姿も目撃されている。


小説家の九条がそんな病院を訪れたのは、ひとえに薬局堂の菊叉に勧めらたからだ。
九条は最近スランプで筆が思うように進まなかった。それで酒の量が増えたせいか、胃腸がしくしく痛むようになったのだ。一層筆も重たくなってしまった。
女好きの菊叉が色男と名高い東苑寺に好意的なのを九条は不思議に思ったが、どうやら菊叉の細々とした収入に東苑寺の病院が関わっているらしい。
「ね、あたしが紹介したから来ましたってちゃあんと言っといてくれよ。約束」
調子のいい菊叉の言葉を思い出しながら、九条は痛む腹をさすった。
辿り着いた東苑寺の病院は確かに近代的で目を引いたが、手入れをされておらず、錆や汚れが浮いて荒んだ様子に見えた。
皆が振り返る美貌を持ちながらそれを生かす振る舞いをしない院長そのものの様だと、会った事もないのにそう思った。だいたい、この町の建物は持ち主に似るのだ。否、持ち主が建物に似るのかもしれなかった。

扉を開けた途端、消毒液の匂いがむわっと鼻を刺した。
中は一層と陰気で、床は足跡がつくくらいに埃っぽかった。靴を履いたままで上がる西洋建築で良かったと九条は思う。青白いランプが切れかかって忙しく点滅しているのも不愉快だ。
待合室には九条以外に誰もおらず、くすんだベージュ色の椅子は全て空いていたが、なんとなく触れるのが憚られて痛みを堪えながら立ったままでいた。
脂汗を流しながら消毒液の強い匂いに思わずえずきそうになる。ランプの傘に虫がぶつかる音を聞きながら瞳を暗くして待っていると、しばらくして「九条さん、どうぞ」と声を掛けられた。見ると、暗い廊下の奥にぼうっと白い白衣の男が浮かんでいた。
ついていくのを躊躇うくらいに心細い廊下だったが、男は九条が来るのを待たずに扉の向こうへ引っ込んでしまった。
木製の廊下は歩くたび、ぎしぎしと大きな音を立てた。


扉を開けると、意外にも明るかった。
大きな窓が机の向こう側の壁にあり、椅子に座る男の姿が逆光で見にくい。
「それで今日はどうされましたか」
淡白そうな声だった。この男が東苑寺なのだろう。
「あの、菊叉薬局堂の主人に勧められて来ました…」
「そうですか」
「胃が、最近とても痛くて…」
「はい」
「仕事にもさし障るくらいで…」
「それはいけませんね」
全く同情心のなさそうな口調で言うと、東苑寺は椅子を近付けて触診を始めた。白い蝋でできたような指は酷く冷たくて、瞼や腹に触れられると身体が跳ねた。
そんな中でも、痛みで意識が朦朧とし始める。頼りない意識を繋ぎとめようと、何か話ていようと思った。
「あの、先生…」
「はい」
「消毒液の匂い…すごいですね……」
「病院ですからね」
徐々に視界も悪くなって、東苑寺が二重にぼやけていく。
「でも、なんか…」
「はい」
「何か腐ったような臭いも…」
「…………」
す、と無表情に顔を上げた東苑寺と目が合った。確かに綺麗だが、まるで作り物みたいで温かみのない顔だった。
そう思ったのが最後だろう。
いつの間にか九条は意識を手放していたらしい。





気がつくと清潔な布団の中に寝かされていた。
大きな窓が開け放たれ、ふわふわと白いカーテンが揺れている。外からの日差しが、白を基調とした室内を優しく照らしていた。
不意にカーテンの向こう側に女物の着物の袖の様なものが見えた気がして、九条はパイプベッドを降りて窓の方まで歩いた。不思議と胃の痛みは感じなかった。
外は出てみると縁側になっていて、ちょっとした庭が見えた。女は縁側に座って外を見ていたらしい。少し高い塀の向こうに、幾らかの建物の影と、廢園地の観覧車が見えた。
細っそりした小柄な女で、折りたたんだら九条が抱き込めそうなくらい儚かった。美しい顔立ちをしていたが、頭の半分が包帯で隠れている。着物から出ている手や首にも包帯が巻かれ、それがとても痛々しい。
「入院していらっしゃるのですか」
思わず声を掛けた後で、不躾だったかと反省した。女は九条の方を向いたが、微笑んだきり、質問には答えない。
美人だ、と改めて思った。
「あ、宜しければお名前を…。わ、私は九条といいます」
あまりに焦って自分が何を口走ったのか一瞬理解ができなかった。しかし、出した言葉はなかった事にできず、女はそんな九条に笑みを深めて、ゆっくりと淡い桜色の唇を動かす。ふわ、と甘い匂いが薫った気がした。

不意に扉が開く音がして、九条ははっとした。見れば水差しを持った東苑寺が部屋に入ってきている。
「目が覚めたようですね」
「す、すみません。気を失ったみたいで…」
「いえ、今は他の患者さんもいませんから」
「え、でも…」
思わず女の方を向いたが、そこにはもう誰もいなかった。
九条がきょろきょろと辺りを見回すのを、東苑寺が怪訝そうに見ている。
「さっき、怪我をした女の方がいたものですから…」
それを聞いた東苑寺は、納得がいったように微笑んだ。
「ああ、妻です」
「妻……」
心のどこかが急速にしぼんでいく。
何をどう期待したのだろうと、九条は自分を恥じた。
「ええ、すみません。あれはどうも人見知りで。失礼はなかったでしょうか」
落ち込んでいた九条は、東苑寺の笑顔を見て、ふと違和感に首を傾げた。
どこか、壊れたような表情に見えたのだ。






その後、病院で貰った薬が効いたのか、胃の痛みは徐々に気にならなくなった。
酒や煙草を控えるようにとの言葉を守ったのも良かったのかもしれない。
それに伴い、執筆も上手くいくようになった。

胃薬の買い足しに薬局堂を訪れると、さっそく新しい連載を読んだらしい菊叉が、にやにやと意味深に九条を見てきた。
「センセも悪いお人だねえ。東苑寺先生を新しいお話のネタに使うなんてさぁ」
雑誌をひらひらと振ってみせる菊叉に、九条は顔を背けた。
「べ、別にまるきりモデルにしたわけじゃない。単にちょうど病院に掛かる機会があったから、病院を舞台にしようと思いついたまでだ」
「でもさあ、陰気な病院に院長、消える患者とくらあ、誰でもピンと来るわな。やっぱりこの謎めいた美貌の女がいいよねえ。この女が実は化け物で、美貌を保つために患者を食ってるなんて乱歩みてぇな怪奇小説だったりしてさ」
「カ、カヲルさんをそんな!ば、化け物扱いするものか!」
思わず大きな声を出した九条は、墓穴を掘った事に気がついた。慌てて真っ赤に染まった顔を手で仰ぐ。春にも関わらず、一瞬で汗が噴き出した。
九条の剣幕に呆気に取られた顔をしていた菊叉も、直ぐにははんと半目で嗤う。そして、わざとらしく声を潜めるとこう言った。
「なあなあ、センセ。これは小説の参考になればと思ったあたしの独り言なんだけどさ…。最初に薬降ろしに東苑寺センセェんとこ行った日さあ、あの人今よりずっと暗くてなんかちょっと様子も可笑しかったのよ」
そっぽを向いていたはずの九条は、気付けば菊叉の語り口に引き込まれるように聴き入っていた。何より東苑寺の妻に関わる話は、今一番彼にとって関心のある話だ。九条の食いつきを見て、菊叉の声音も更に芝居掛かる。
「そんで丁度歳も同じくらいだし?慣れない町で心細いんじゃねえかってんで、世間話とかしてたんだんだけどさ、そん時あの人言ってたのよ。最愛の妻を亡くしてから辛くて辛くて仕方がないってね。気の毒に思ったからよおく覚えてるよ」
「え、じゃあ、あの人…」
「後妻って事だろうね。まあまあ、あんだけの男前だから。すぐに女もできるだろうさ。でもね、ちょっと変だと思わねえか。だってあたしの記憶が馬鹿じゃなけりゃあ、前の奥さんも名前がカヲルだったからね」
九条は血の気が引いた顔で数歩後ずさった。
これではまるで、頭の中にある怪奇小説のようではないか。
「ま、あたしの記憶違いだろうね。ハナヨだとかカオリだとか似たような名前いっぱいあるしさ」
「も、もう、揶揄わないでくれよ…」
「悪い悪い。九条先生の小説に当てられたかな」


『カヲル。カヲルと申します』


そう言った時の、あどけない少女の様な顔が忘れられない。
九条の中で、あの柔らかいカーテンに包まれたような出会いは、特別な宝物だった。
「私はただ、小説の中でなら、彼女と…」
「彼女と…?」
「あ、…いや……」
九条は自分が口走りそうになった言葉に気付き、「何でもない」と叫ぶと薬の袋を掴んで逃げるように店を後にした。
「おおい、戸を閉めてってくれよう」という言葉は無視され、やれやれと店主は勘定台から降りる。


七ツ星実験病院に包帯を巻いた美しい女が現れるとの噂は、それからすぐに広まった。
謎めいた女の影に懸想をする男も少なくなかったが、その中でも九条は熱心な女のファンである。最近の彼の小説には、いつも儚げな美しい女が出る。小説の中で女は、煌びやかな夜会でダンスを踊ったり、お洒落をして流行り町を闊歩したりと楽しそうだ。
一方で妻に色目を使われて気を悪くしているかと思えば、別段東苑寺に変わりはなかった。今日もまた、まるで独身男のような皺くちゃのシャツと黄ばんだ白衣に袖を通し、噂などひとつも知らないような暗い顔で患者を診ている。
ただ、最近では女児だけでなく男児までもが、あの病院には近付いてはいけないよ、と言われるようになったらしい。